第12章 家賃
(え、良い匂いがいっぱい…!信長様っていうかお部屋自体が良い匂いだったんだ…どうしよう、やっぱりこれ、好き)
ちなみにやはり匂いの話だ。光秀に釘を刺されている為、意識を飛ばす事だけは避けようとしているが、どうしても視線はこの極上としか形容しようのない香りの元を探してしまう。
ほんのり目元を紅潮させる様は既に無意識下で匂いに酔っている証拠であり、主君の前で失礼な態度を取るとは何事か──という意味ではなく、まったくもって私的な感情で眉根をほんの僅か寄せた男が薄い唇に音を乗せた。
「凪」
「…っ、あ、ごめんなさい。信長様、失礼します」
呼びかけられた名によって我に返った凪がバツが悪そうに眉尻を下げつつ挨拶を紡ぐ。光秀も静かに一礼し、襖を閉めて信長が座している脇息近くへ近付いた。
視線で促されるままに二人が腰を下ろす様を見届け、信長は凪の顔を一瞥すると面白そうに笑う。
「そういえば貴様は鼻が効くのだったな。では、酌を命じた時も、あれに反応していたという事か」
流すような視線を床の間へ指し、そこに置かれている大きな香木に意識を向ければ、何処か納得した様子で告げた。
信長の視線へつられるよう床の間へ目をやると、そこから発せられる色濃い極上の香りに凪の黒々とした眼が輝く。
「あれは何ですか?」
純粋な興味を覗かせて問われると、悪い気はしない。
視線の先を再び床の間へ一度投げた信長は腕組しながら告げた。
「あれは伽羅(きゃら)だ。香りの強いもの故、貴様には少々効き過ぎるやもしれんな」
「確かにそうかもしれません。嫌な意味じゃないですけど、良い匂い過ぎて…ちょっとぼーっとします」
伽羅と呼ばれた香木から視線を外し、困ったように笑った凪を目にして緋色の眼を眇めた信長は腕組していたそれを解き、脇息へ片肘を置くと頬杖をつく。淡い行灯の光が満ちた空間で男の漆黒の髪が動きによってさらりと揺れ、揺らめく光源によって艶を増した眸が凪の染まった目元をなぞった。
「…ほう、では貴様へ夜伽を命じる際は障子を閉め切り、香りを十分に満たしておくか」
「よ…!?いえ、何というかその…私では絶対役不足なのでもっと美人な女性の方が似合うというか…とにかく遠慮しておきます」