第12章 家賃
「……一つ言い忘れていたが」
「はい?」
指先へ微かに力が込められた事に気付いた凪が不思議そうに顔を上げる。彼女の大きな眼が真っ直ぐ自らへ注がれているのを視界の端に捉え、光秀が緩やかに口角を持ち上げた。
「宴の時のように、信長様の御前でおいたはしてくれるなよ?」
「おいた?」
宴の時のおいたとは果たして、と一瞬思考した凪だったが、次いだ男の言葉に思い当たる節があったのか、微かに耳朶を赤く染める。
「お傍へ寄った時、信長様の羽織りを見ていただろう」
「…う、」
「大方、あの御方の香にでもあてられたんだろうが、羽織り程度でああなってしまうとなれば、天主の中ではまともに話も出来なくなるだろうな」
「そんな分かりやすかったですか…!?」
正直良い匂いに意識が行き過ぎていて、周りの目などまったく気にかけていなかった。恐るべき光秀の洞察力には思わず舌を巻く。気まずそうに言うと凪は早めていた歩みを緩め、熱くなった片耳を繋いでいない方の手でそっと冷やすよう触れた。
「…気を付けます。……多分」
言い切るだけの自信がないらしい凪の曖昧な返答に微かな吐息を気付かれぬよう溢した光秀は、視線を凪の方へと静かに流す。
白い肌が赤く染まる様はそれだけで色めいていて、手をこうして彼女と繋いでいなければ、つい指先で確かめるように触れてしまっていたところだ。
戯れも程々にすべきかと意識を切り替えた光秀は、辿り着いた廊下の突き当り、見事な絵が描かれた襖の前でそっと繋いでいた手を離す。
立ち止まったその場所の向こうに誰が居るのかさすがに察している凪も、耳に触れていた手を下ろして居住まいを正したのを見やり、光秀は静かに襖の向こうへ声をかけた。
「信長様」
「ああ、入れ」
名を呼びかけただけで入室の許可が襖の向こうから投げかけられ、静かに襖を開くと広い一室が視界に広がる。
豪勢な調度品が置かれたそこは、まさに天下人が住まうに相応しい空間であり、開け放たれた障子の向こうからは夜空と輝く星々が見えた。
しかし、凪が真っ先に反応したのは襖を開いた瞬間にぶわりと広がった、天上極楽の香りである。