第3章 出立
自身の中でひとまずそう完結させ、話題を切り替えるようにして、おもむろに光秀が立ち上がる。しかし、その刹那。
「光秀さん…!」
半ば弾かれるように、凪の手が伸ばされた。
細い指先が迷いなく光秀の着物の袖を掴み、彼の動きを留める。
力などさして込められていない筈の彼女の緩やかな拘束に、それでも光秀は動く事が叶わなかった。予想だにせぬ彼女の行動へ、驚きに瞠られた金の瞳が凪を映す。
(…何故、そんな顔をしている)
不安に揺れる、今はもう普通に戻ったらしい黒の眼が、陽射しを浴びてゆらりと揺れたように見えた。何かを言わんとして、だが音にならないそれを、もどかしいとでも言うように薄い桜色の唇がわななく様は、これまで目にしたどの表情とも異なる。
畏怖にも似た色を浮かべる凪を前に、最初は踏み込むまいと追及を諦めた光秀の中に、ふと別の感情が過ぎった。
「どうした。何か言いたい事があるなら、聞いてやるとしよう」
これを見過ごしてはならない。根拠のない直感が光秀にそう言葉を紡がせる。
男の逸らされる事のない眼差しを受け、衝動的とも言える己の行動に己自身で驚いていた凪が、数度緩慢な瞬きをした後で掴んでいた袖をそっと離す。
(言ったら、信じて貰える?)
分別の付かなかった幼い頃以来、自身が【見た】ものに関して誰かに告げた事などなかった。物心がつく頃には、それを口にしたら他人にどう反応されるかなど、容易に想像が出来たからだ。
ここは現代ではない。ただでさえ怪しまれる立ち位置に居るというのに、先程【見た】事を口にすれば、余計な不審感を煽るだけではないか。
それでも、この時代に比べれば安穏とした日常を送って来た凪が【見て】来たものとは到底比べ物にならない先の光景を自身の胸の内だけに留めておく事は、どうしても難しかった。
出会って間もないとはいえ、こうして普通に言葉を交わしている相手がどこかで傷付く可能性を知りながら、黙っているなど凪には出来ない。
躊躇の見える凪を、光秀は決して急かす事はなかった。
ただ目の前に佇み、静かに彼女を見つめている。