第3章 出立
唇を引き結んだ光秀は、真摯な視線を凪へ注ぐも、それは数瞬の事であった。鼓動の治まりを感じた彼女がおもむろに両手を外し、男の前でどこか罰が悪そうに眉尻を下げる。
「取れたみたいです。…睫毛くらいで、ちょっと大袈裟でしたね。すみません」
「謝る必要などないだろう。大事ないなら、それでいい。気になるなら洗い流した方が良い…と言いたいところだが、井戸水ならばともかく、川の水で目を洗うのは避けた方がいいからな」
「ちゃんと取れたので大丈夫ですよ」
「……そうか」
幾分柔らかさを増した彼の声色に、募る罪悪感を振り払うよう凪が緩く首を振ってみせた。
男の短い相槌が正面から発せられるのを耳にしつつ、強制的に【見る】事になった、先の光景が凪の脳裏に蘇る。
眼に焼き付いた鮮烈な赤にそっと拳を握り締め、言い知れぬ胸騒ぎを必死に落ち着けようと記憶の残像をかき消そうとした。しかし忘却を許さないと言わんばかりに、白刃を受けた男の姿が意識の片隅で過ぎる。
暫しそんな凪の姿を、光秀は静かに見守っていた。
睫毛が入ったなど、彼女が咄嗟に取り繕った嘘である事には気付いている。
水を汲み終えて立ち上がり、背後へ向き直った時、既に彼女は両手で目を覆ったまま顔を俯かせていた。先程まで少なくとも普通に会話をしていた筈の凪の異変を光秀が不審に思わぬ訳がない。
足早に近付き、凪の前で片膝をついた時、不意に目に入った彼女の変化を認めたのだから、尚のこと。
(あの時、確かにこいつの目は青く変わっていた)
目を覆う指の隙間、見開かれた瞳の虹彩が、本来の黒色をしていなかったのだ。青といっても、ぼんやりと瞳の色が鈍く変わっているだけで、ともすれば光の加減でそのように見えたと言い訳しても場合によっては通るのだろうが、俯いて手で影を作った状態では当然光は届かない。
人は、他人に言えない事のひとつやふたつ、抱えていてもおかしくない生き物だ。自分とて誰かに手放しで全てを打ち明ける事など出来ないし、それが何か特別な事であるのならば尚更。
恐らく、これに関しては踏み込んではいけないのだろう。直感的にそう考えた光秀は、努めて普通だというような態度を取る凪を、今この場で不用意に問い詰める事が出来なかった。