第11章 術計の宴 後
「貴様ァ!明智光秀…っ!!!」
光秀が口にした囁きに近い言葉は、女以外には聞こえていない。烈火の如く怒り狂った女の金切り声が間近で響いたにも関わらず、光秀の表情はひくりとも動かなかった。
やがて、女の顎へ添えていた手をぞんざいに離せば、支えを失った女中の上体がぐらりと前のめりに倒れ込み、家臣によって横顔を畳へ擦り付けられる。
「連れて行け」
微かな布擦れの音を立てて立ち上がり、温度のない声で一言光秀が告げると、家臣達が女を引っ立てて歩き出した。
彼女はこのまま城の地下牢へと連れていかれ、尋問を受けるのだろう。既に素性の調べは付いてると言っていたが、他にも有益な情報を持ち得ているかを確認されるのは、もはや必然だった。
毒殺未遂事件とその実行者疑惑、果ては命を狙われて最終的に目の前で捕物が始まった一連の件にすっかり呆然としてしまった凪を、それまで背を向けていた男が振り返る。
白袴の揺らぎに合わせ、足から視線をゆっくりと上へ辿った凪の眼と光秀のそれがぶつかり合った。
凪と視線が混じり合った瞬間、光秀はほんの僅かに目の奥へ何かの感情を滲ませるが、瞬きと共にそれを消し去ると片手を伸ばす。
大きな手のひらが凪の頭をひと撫でした刹那、彼女の黒々とした目の奥がゆらりと揺れた。
それが、明確な安堵の色である事を知った光秀の目が僅かに瞠られる。
「…怪我はないな」
「……うん、大丈夫。あの、」
いつもの感情が読めない表情を貼り付け、確かめるように呟きを漏らした光秀へ同意しつつ頷き、凪が礼を言おうとしたが、彼はまるでその言葉を避けるかの如く、触れさせていた手を離して身を翻す。
流れるような所作で優雅に信長の御前へと片膝をつき、頭(こうべ)を恭しく垂れて見せた光秀を捉えた主君は、己の左腕へ静かな視線を注いでいた。
「信長様、御前をお騒がせ致しました事、お詫び申し上げます」
光秀の思惑がどのようなものだったにせよ、せっかくの宴の場を捕物へ利用した事に変わりはない。
瞼を伏せたままで発した光秀の謝辞を耳にした信長は、吐息だけで小さく笑った後、やはり悠然とした余裕のある様子で傍らへ置いてある鉄扇をそのまま畳の上へ打ち付けた。