第11章 術計の宴 後
信長の傍へ正座した凪は、ふと傍から漂う、えも言われぬ良い香りを感じて思わず脇息へ緩く凭れた男の横顔を見上げた。白く上質な羽織りから強過ぎず、しかし控えめではない程度の香が漂っており、その何とも言えぬ極上の香りについ状況を忘れて整った精悍な面(おもて)を見つめてしまう。
(なにこれ、滅茶苦茶良い匂い…!え、どうしよう、好き)
ちなみに香りの話である。光秀の薫物も嗅ぎ慣れたという点を仮に除いたとしても、かなり凪の好みであるが、信長のそれは文字通り別格だった。猫にマタタビ状態とはこの事か。
信長の傍に寄って酌をしなければならない状況にも関わらず、凪の猫目がちな黒々とした双眸は、いっそ熱っぽささえ宿しながら緋色の双眸…ではなく真っ白な羽織りへ向けられている。
先程までかなり緊張していた様子から一変した凪に気付かぬ信長ではない。よもやその変化が香りの所為だとまでは見抜けないだろうが、懐かない猫が突然懐柔されたような様を目の当たりにするのは、まあ悪い気はしないというものだ。
喉の奥で小さく笑いを溢した信長は盃を手にしていない方、脇息へ預けていた側の腕を持ち上げ、指先で戯れの如く凪の顎をすくい上げる。
硬い親指の腹で華奢な輪郭をなぞり、軽く身を寄せながら上から彼女を覗き込んだ。
「貴様、先程までとは随分な変わりようだ。…だが、悪くない目だな」
緩やかに口角が持ち上がったまま、幾分囁きのように落とした言葉には隠しきれない興が滲む。間近でぶつかった互いの双眸と、発せられた言葉に我へ返った凪が慌てた様子で思わず身を引いた。
「…あ、いえ!すみません」
まさか天下人の傍へ侍りながら、彼から発せられる良い匂いに意識を飛ばしていたなどとは誰も思うまい。どう見ても先程の凪の反応は、端からみれば信長へ見惚れていたように取られるだろう。
凪が上座へ向かった事で構う相手が居なくなったらしい政宗は、大人しく自らの席へと戻り、さながら余興でも目にしているかの如く笑った。
ちらりと視線を流し、自らの左隣に座っている光秀の横顔を無言のままに窺う。光秀はただ真っ直ぐに二人のやり取りを見つめていた。