第10章 術計の宴 前
結局、光秀はあれから凪の部屋を一度も訪ねては来なかった。
彼女が自室に居ない時間に訪れ、芙蓉の簪を置いていったところを見ると行き違いか何かになってしまったのだろうかとも思ったが、そうではないらしい。
当然だ、光秀は凪に立入禁止を言い渡されているのだから。
前を見ても隣を見ても、あの真白な立ち姿は傍に無い。
空っぽの片手は彼の低い温度をいやという程覚えているというのに、今はそれを包む大きな手のひらが無い、その事実がどうにも落ち着かなかった。
(自分で立入禁止って言ったんだから、来なくて当然だし)
それでも心の何処かでは思っていたのかもしれない。
光秀ならば、何かしら上手い事を言ってするりと部屋へ入り込んで来てしまうのではないか。文句を言う自分を宥めすかし、いいように転がして、あっという間に足の処置をしてしまうのではないか。
そんな事を考えた凪は、ふと弾かれたように首を左右へ振り、早鐘を打つ鼓動を抑え込む。
(いやいやいや…!足の処置してしまうって何!?別に手当てくらい自分でやりなさいって話でしょ。…まあ、結局千代達にやられちゃったんだけど…)
いつの間にか、光秀が傍に居るという事が当たり前になり過ぎていた。やはり摂津で何日も傍に居た所為だろうか、そこまで思考して、凪はゆっくりと治まりつつある鼓動へ吐息を漏らしたが、ふと双眸を僅かに見開いた。
(違う……私、光秀さんに知らない内に甘えてたんだ)
事情をすべて知っている光秀に対し、凪は無意識の内に彼を頼って甘え、安心感を得ていたのだ。意地悪なところが多々ある光秀だが、彼の根底がとても優しいという事を凪は知ってる。
すべてを包んでくれて、凪の異質さを認めてくれる光秀の傍はとても居心地が良く、安心出来た。
だからきっと今もそれが失われているからこそ、こうして無意識に光秀の影を探してしまうのだと、そう結論付けた凪はそっと拳を握り締める。
(ただでさえ忙しいのに護衛して貰って、御殿にまで住まわせて貰うんだから、もっとしっかりしなくちゃ)
三ヶ月後に帰れるとは佐助から聞いているが、その短い期間とて光秀の時間を奪ってしまうのには変わりない。