第10章 術計の宴 前
蓋を開き、男が竹で作られた柄杓(ひしゃく)で軽くすくって見せると、透明な濁りのない酒がその中でゆらりと揺れる。酒樽の中身と柄杓のそれを目の当たりにしながら双眸を瞬かせたお千代に続き、そっと彼女の隣へ近付いた凪は、漂う甘やかな香りについ視線を向けた。
(…わ、凄く甘くていい匂い。さっき戸を開けた時に一番強く香ったのはこのお酒か)
「これ程の清酒はなかなか見られるものではないでしょう。きっと信長様もお喜びの事と思います。…それで、毒味は済んでいるのですか?」
「…!」
最後に低められた声色でお千代が発した言葉を耳にし、凪は小さく身を跳ねさせる。この時代では当たり前のように行われているのだと、安土城に来て最初にいただいた夕餉の時に知った事とはいえ、どうにも慣れない。
そんな凪の様子を女中が見やり、心配そうに眉尻を下げた。
「…凪様、お顔のお色が優れませんが…酒の匂いにあてられてしまいましたか?」
「あ、いえ…なんでもないです」
自らを案じる様子に首を振り、取り繕うようにして笑うその傍ら、下働きの男達は言いにくそうに言葉を濁したが、やがて観念したように口を開く。
「毒味は済んでおります。……その、明智様が自ら飲まれて」
「えっ!?」
毒味を光秀自らが行ったという男の発言がつい耳に入り、無意識の内に声を上げてしまっていた。半ば予想出来ていた事だったのだろうお千代はまたしてもひくりと眉根を寄せ、小さく溜息を零すと呆れたような、あるいは投げやりにも見えるような素振りで問い返す。
「それで、光秀様は何と?」
「はあ…【酒の味はよく分からんが、毒はない】とだけ」
「……なるほど、よく分かりました。良いでしょう、こちらの酒につきましては…そうですね、おそらく凪様を信長様がお呼びになるでしょうから、その時に初めてお出しなさい」
「かしこまりました。そのように手配いたします」
光秀の感想に至っては相変わらずだな、などと内心で苦笑していた凪であったが、お千代のこめかみは若干ひくついていた。やがて微かな吐息と共に紡がれた指示へ、女中が頷いてみせる。その後、幾つかの確認を済ませたのち、再度頭を下げる下働きと女中へ挨拶を済ませた二人は酒倉を後にして、そのまま今度こそ湯浴み場へと向かったのだった。