第10章 術計の宴 前
「控えなさい。今宵お出しする酒については事前に書簡にて伝えていた筈です」
「も、申し訳ありません…!凪様を湯浴み場へお連れの途中とは思ったのですが、新たに本日献上された酒がそれはそれは特別なものという事で、一部お品を変えてはいかがかとご提案がございまして」
おそらく凪を連れている最中に話を持ち掛けた事を叱り付けているのだろう、凪には見せない厳しい女中の顔を見せたお千代に対して、声をかけて来た支子色(くちなしいろ)の小袖をたすき掛け状態にし、袖を上げていた女中が慌てた様子で一歩控えて頭を深々と下げる。
視線を窺うように凪へ向けた後、再び畏まった様子で瞼を硬く閉ざす女中の言い分を耳にし、お千代は短く問いかけた。
「一体どなたのご提案だというのです」
「明智光秀様でございます」
(……光秀さん?)
思いも寄らぬ方向で飛び出して来たその名に、お千代の眉間がひくりと苛立たしげに動き、凪は内心で目を瞬かせる。
立入禁止と告げた光秀の姿は、結局あれから見ていない。元々多忙な身であるだろう事は分かっていた為、忙しいのだろうと思っていた凪を他所に、お千代は目を伏せながら盛大な溜息を漏らした。
「…まったく、あの御方は段取りというものをことごとく台無しにしてくださいますね。しかし信長様のご側近たる光秀様のご提案ならば致し方ありません。…ですが、一度その献上された酒につきましてはわたしくが確認させていただきます」
「よろしくお願いいたします…」
盛大な文句を漏らしながら静かに憤慨したお千代の言葉に、幾分安堵したらしい女中も肩の力を脱力させる。
眉尻を下げ、恐縮した様子で凪を窺ったお千代は面持ちを曇らせて彼女を見つめた。
「凪様、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?すぐに終わらせます故…」
「大丈夫だよ、仕事なんだから気にしないで。…あ、良かったら私も酒倉の中、見学してみたいんだけど…どうかな」
「姫君が酒倉を?」
確認作業は必要であろうし、何事も上へ相談しなければ勝手に事が進められないというのはいつの世も同じなのだろう。
会社務めの記憶を思い起こすようなやり取りに笑みを浮かべてみせれば、思い至った様子で凪が一つ提案をした。