第10章 術計の宴 前
「さあ、参りましょう。この先は厨と酒倉なので、湯浴み場まではもうすぐでございますよ」
「……あ、う、うん。分かった」
追及をさせない物言いに、凪はそのまま突っ込んで話の続きを求める事は出来なかった。先程までのやり取りなど一切感じさせないような綺麗な笑顔を浮かべてみせたお千代へ釈然としないものを抱えながらもそれ以上深く問い詰めて彼女を困らせたくなかった凪は、素直に頷いた後で再び歩き出す。
彼女の言う通り、少し先を進むと忙しそうに足早で移動する幾人もの下働きの男達や女中の姿が視界へ映り込んだ。厨からは食欲をそそるような良い香りが風に流されて運ばれ、凪の元まで届けられる。
軍議を終えた後、三成に言われた言葉を思い起こした凪は、光秀と自分の為にと懸命に支度してくれている彼らへ一言声をかけた方がいいものかと悩んで速度を緩めた。
その刹那、お千代が即座に視線だけを流して厨の中を把握すると、下働きや馴染みの厨番の中に混じって料理に勤しむ一人の男の姿を捉え、凪を静かに促す。
「…凪様、厨番達が驚いてしまいますので、少し急ぎましょう」
「うん?」
さあさあ、と言いながら静かに、しかし些か強引に凪の歩みを急かしたお千代へ怪訝な色を見せながらも足を早めて一気に厨の前を通り過ぎた。その拍子、ちらりと視界へ映った青い着物は、軍議の場に居た政宗ではなかろうか。
挨拶しなくても良かったのだろうかと心底疑問に思った凪であるが、もしかしたら自分の支度を急いでくれているのかもしれないと思えば途端に申し訳なくなり、仕方なく彼女は厨へ寄らぬまま酒倉の方へと向かった。
「お千代様、少々よろしいでしょうか?宴にお出しする酒の事でご確認がございまして…」
料理や宴で出される数多の酒の内、表の大蔵から運び込まれた幾つかの酒樽はすぐに銚子などへ用意出来るよう、城内の酒倉へ収められていると説明を受けた凪がその大きな扉へ視線を向けながら歩いていると、後方からお千代を呼び止める声が二人へ届く。
厨から遠ざかったところで足を止めたお千代は、声をかけて来た女中へ些か厳しい面持ちを浮かべるとその相手へ向けて抑揚のない音を発した。