第10章 術計の宴 前
特に急ぎ足になる事もなく、ただ緩やかな足取りのまま、そこへと差し掛かった光秀を死角の空間から呼ぶ声があった。
「光秀様」
女性にしては低めの声色であるそれは、ここ数日耳にしていなかったものの、よく覚えのあるものだ。
柱の角で歩みを止め、視線だけを横へ流せば予想した通り、着物を包んでいるのだろう布を両手で抱えたお千代の姿がある。背こそ壁際に預けてはいなかったが、ほとんど気配を絶っていたといっても過言ではない彼女を認め、光秀は内心で肩を竦めた。この分だと少し離れた位置で交わしていた凪とのやり取りは少なくとも筒抜けだったであろう。
何せ、彼女は耳が良い。それというのも、実際に彼女の聴力が優れているという意味ではなく、城中のあらゆる情報はおおまか漏れず彼女直属の女中や庭師、厨番達の口から語られ、彼女の耳へと入って来るのだ。
(……やれやれ、後で一体どんな文句を言われる事やら)
内心で苦笑を零す光秀を一瞥し、お千代は美しい面を形作る切れ長の涼やかな目元を眇め、両手に抱えた布を軽く差し出した上で片手で上の部分だけをはらりと捲る。
恐らく宴の席で凪へ着させる予定である小袖だろう、淡い藤色のそれの上に折り畳まれた一枚の紙が置かれていた。
「やはり、黒でしょう。わたくしはそう思うのですが、いかがですか?」
端的に告げられた言葉を耳にすれば、手元の着物なども相まって、色合わせの相談をしているようにも見える。
しかしそれにしてはお千代の顔は死角からは見えないものの、酷く淡々としており、男へ向ける視線は幾分冷たい。
まったく意に介した様子のない光秀が片手で凪が袖を通すだろう小袖の表面を軽く撫で、そのまま流れるような所作で上に置かれた紙を持ち上げる。かさりと音を立てながら紙を開き、その中へ書かれていた内容へ即座に目を通した後、不自然にならぬよう手の中へ握り込んだ。
「……ああ、そうだろうな。俺もようやく今結論付けたところだ。長旅の間に完全な尻尾を掴めるかと思ったが、やはりそう上手く行くものでもない」
「…何事も予想の及ばぬ事はございます。光秀様程の御方でも、悩まれるものなのですねえ」
自然な所作で腕を組みながら、紙を握り込んだ腕を下側にすると、二の腕で隠しつつ手の中のそれを懐へそっと仕舞い込む。