第10章 術計の宴 前
「さっき湯浴み場の近くを通った時、お千代さんにたまたま会って、凪様を見つけたら部屋に戻るように伝えて欲しいって頼まれたんだ。後、俺と凪様は初対面でしょ?せっかくだから挨拶したいなぁって思って」
「……ほう?お前はこの娘が凪だと知って声をかけたのか。蘭丸、お前はつい三日程前に安土へ戻り、信長様より恩情をいただいたばかりだと家臣から聞いていたが」
蘭丸の返答を耳にし、光秀が面白そうに口角を持ち上げる。淡々とした様子で腕組をし、片手を自らの顎へ添えた男を前にしても、蘭丸自身は意に介さない。
それどころかくすくすと笑いを溢し、両腕を背の後ろで軽く組みながら上体を屈め、光秀の横からひょいと顔を出し、その背後に立つ凪を見た。
「女中のお姉さん達から織田家ゆかりの秘蔵の姫が、光秀様に任務へ連れ出されたっていう話を聞いてただけだよ。勿論今日帰って来た事も知ってるし、光秀様が知らない女の子を連れてたら、その人が噂のお姫様かなって事くらい、俺にも分かるよ。ねっ♪凪様」
「え、うん?」
唐突に話を振られ、つい咄嗟に頷いてしまった凪が首を傾げる様を目にして蘭丸がにこりと屈託ない笑みを浮かべる。
(さっきから蘭丸って呼んでるけど、もしかしてあの森蘭丸?美少年って嘘じゃなかったんだ…)
二人のやり取りを話半分で聞きながら凪はうっかり内心で思案に耽っていた。さすがに歴史関係に疎い凪と言えども、織田信長の小姓として有名な森蘭丸の名くらいは知っている。歴史ではとんでもない美少年だと語られていたが、現代でも通じるレベルの美少年ぶりにただ驚くばかりであった。
「…というわけで、改めて初めまして!森蘭丸です。皆俺の事蘭丸って呼ぶから、凪様も気軽にそう呼んでね」
「あ、こちらこそ初めまして。結城 凪です。よろしくね。えーと、蘭丸くん」
「別に呼び捨てでもいいのにー」
互いに挨拶を交わし合った後、突然呼び捨てをするのも抵抗があったらしく、凪が控えた調子で呼べば蘭丸はあざとく頬を膨らませる。