第10章 術計の宴 前
驚きと羞恥と気まずさが色々と混ざり合った感情を持て余し、凪が息を呑みながら目を見開いた。そうして視界の端に映り込んだ男の顔を捉えてふるりと震える。
さながら追い込まれた獲物のような様の凪を横目に、光秀は吐息だけで笑うとそのまま顔を離した。
(……まったく、俺も大概凪には甘い。だが、摂津で龍の影有り、か。調べる必要がありそうだな)
片側だけ耳朶を異様に赤く染めた彼女の物言いたげな面持ちを前に宥めるよう頭を撫ぜた後、光秀はふと視線を誰も居ない廊下の先へと投げ、やがて微かに口元へ弧を描く。二人は現在角に居る為、その先を窺う事は出来ない。
しかしそれはほんの一瞬の事ですぐに消え去り、改めて光秀は凪へと向き直った。
「一つ目は見逃した。二つ目はそう容易に逃げ切れると思わない事だ」
「……な、なんですか」
揶揄の色と言うよりは、思いの他真剣な眼差しで問われた事に凪はそっと息を呑み、緊張感を覗かせて硬い声色のまま応える。黒々とした上目で見つめられると、つい意地悪をしたくなってしまうが、それは後に取っておく事として光秀はいまだ壁へついたままの片手をそこから動かす事なく告げた。
「清秀殿とは何を話した。事のあらましは森で聞いたが、あの男の動向を追う以上、僅かな情報でも逃す事は出来ない」
「亡霊さんと話した事って…そんな重要な話をした記憶は…」
清秀については凪自身も信長に手網を握れと命じられた為、責任がある。真摯な光秀の視線を真正面から受け、先日の森での邂逅を必死で思い返していた凪は、顔を僅かに俯かせて言い淀んだ。
無意識だったのか、おもむろに片手を持ち上げ、自らの顎へ指先で軽く触れながら黙り込んだ凪の淡い色を乗せた唇へ視線が向いた男の脳裏に一つの残像が過ぎる。
あの時、光秀は凪の背後に居た為、はっきりとそれを目にした訳ではない。故にあの男の唇が凪のそれへ確実に触れた様を見たのではないが、彼女の対応を見るに確かに唇へ触れたのだろう。
凪の指先が華奢な顎に触れている様を目にすると、その感触をなぞっているように見えて、光秀の眉根が僅かに寄った。