第10章 術計の宴 前
「あ、ううん。お出迎えなんてそんな気を遣わなくても大丈夫だよ。…でも、ありがとう。ただいま」
高めの甘やかな声は耳に心地よく、向けられる眼差しの柔らかさと、先程までの張り詰めていた空気とのギャップについ肩の力が抜けて行く。
気遣いの言葉をかけてくれた相手へ緩く首を左右に振った凪は、裏表のない純粋な労いに対し、はにかむような笑みを向けた。
そんな凪の姿を目にし、一番最初に安土城へ案内した時よりも彼女の雰囲気が幾分柔らかくなっているように感じた三成が微かに紫色の眼を瞠った後、嬉しそうな色を乗せて微笑む。
「長旅でお疲れでしょうし、宴が開かれる夕刻まではまだ時があります。刻限まで少しお部屋でお休みになられてはいかがでしょうか」
「でも宴って急に決まったみたいだし、準備も色々大変なんでしょ?だったら、何か手伝った方がいいのかなー…とか思ったんだけど」
「凪様は気遣いの細やかなお優しい方なのですね。ですが、今夜の宴は光秀様と凪様の労をねぎらう事が目的ですので、お気遣いは無用ですよ。きっと、皆様もお二人を驚かせたいとお考えの筈です」
姫設定であれども、所詮は居候の身である。長旅帰りとはいえ、部屋で一人のんびりするのは気が引けると思った彼女のそれを三成はやんわりと留めた。そこまで言われてしまうと無理矢理押し切る訳にもいかず、凪は小さく頷く。
そうしている内に二人の元へ近付く影があり、広間の入り口付近で立ち止まったそこから短い音が発せられた。
「凪」
低く艶めいた音は聞き慣れたその人のものであり、顔を上げた時には既に家康と政宗の姿はなく、残っているのは凪と三成、そして秀吉と光秀だけである。
いざなわれるよう声の方へ顔を向けると光秀がそこに立って凪を見ていた。
軍議中の意味深な視線が脳裏を過ぎり、凪が内心ぎくりとしている事を知ってか知らずか、光秀が口元へ薄い笑みを刻む。
「話の途中ですまないな、三成。お前の言う通り、凪を少し休ませてやりたい。なにせこの数日間、この娘にとっては気を張る事ばかりだったものでな」
凪を見ていた視線を隣に座す三成へと向け、いつもの調子で告げると三成はすぐに笑みを浮かべて頷いてみせた。