第3章 出立
視線を合わせる、というのは存外今を生きる者たちにとっては難しい。武将同士ならばともかく、一介の小娘風情が武器を持つ武将相手に物怖じせず、視線を合わせて言葉を発するなど、あまり考えられない事であった。近しい部下以外の家臣であっても、時折光秀の見透かすような視線から逃れるよう、視線を俯かせるというのに、目の前の女ははっきりと無実を主張し、光秀を見つめている。
早朝に訪れ過ぎて、化粧(けわい)の暇すらなかったのだろう化粧っ気のない凪の睫毛はよく見ると思いのほか長い。
それに縁取られた黒眸の奥底に毅然とした意志が見えて光秀はつい、会話を始めてから努めて浮かべていた笑みを消し去った。
(警戒心が強い割に、時折無防備で素直な反応を見せる事もある。流されるかと思えば、真っ直ぐに物怖じせず意見を伝える豪胆さも持ち合わせている。…いずれにせよ、間者にしてはこの娘、どうにも見た限り、狡猾さに欠けるな)
幾度もそういった者たちと関わりを持って来た光秀だからこそ分かる、間者特有の後ろ暗いものを上書きするような取り繕いを凪からは感じ取る事が出来ない。ここまでの短い時間ではあるが感じ取った凪の人となりを前に、光秀は己の思考へ一旦蓋をし、消し去っていた笑みを再び貼り付ける。
「それは追々、自分の目で確かめさせてもらう事としよう」
「そうですか。いくら調べても事件の関係者なんて事実、何も出て来ないですけどね!」
憤慨とまではいかなくとも、僅かな苛立ちを滲ませた凪が投げやりな言葉を吐き、背後へ振り向いていたその身体を正面へ戻す。風と馬揺れか、あるいはこちらへ振り向いていた所為か、横へ流していた束ねられた黒髪が背中の方へと移動してしまっていた。指先を伸ばし、元の位置へと梳くようにして戻してやれば、必然的に触れた彼女の肩がびくりと小さく跳ね、光秀の意図を悟ると小さな礼が返ってくる。
一瞬だけ触れた肩は、当然ながら華奢だった。
気配に過敏な鍛えられたものの反応ではない、ただの他愛もない小さな動揺であるその様に、何故か言い知れぬ安堵を覚えた光秀は、駆け慣れた道の先、遠くながら視認できる程度に近付いてきた国境の景色を認め、手網を握る指先へ僅かに力を込めたのだった。