第10章 術計の宴 前
清秀のそれに、不快だと言わんばかりの面持ちを浮かべた帰蝶が短く吐き捨てる。
気を害した様子もなく、用件は既に済んだとばかりに立ち上がった清秀は、そのまま着流しの裾を翻し優雅な足取りで扉へと向かった。
やがて、扉を開け放ったところで顔だけを振り向かせた清秀が小さく笑う。
「それじゃあ、用事があったら声を掛けて。私は適当にしばらく堺へ留まっているよ」
ひらりと片手を振ってみせ、そのまま部屋を後にした清秀を特に見送る事もせず、帰蝶は閉ざされた扉から視線を外して瞼を伏せる。
閉ざされた視界の中で、何故か色濃く印象に残ってしまった酔芙蓉の簪が思い浮かび、彼は小さくかぶりを振った。
「……本当に、くだらない話だ」
口内で吐き捨てるよう呟きを落とした帰蝶の姿を、籠の中で見守っていたつぶらな瞳が見つめている。おもむろに立ち上がり、籠へと近付いた帰蝶へ嬉しそうに寄って来た小鳥――福がぱさぱさと羽を広げた。
「キチョー!キチョー!」
「…お前も、あの男へは無闇に近付くな。危険と分かっているものへ自ら近付く必要はない、いいな」
「……ウン?」
何処となく真摯な調子で紡がれた帰蝶の言葉に、小鳥は軽く首を傾げる。不思議そうに瞬かれる丸い目を見つめた後、帰蝶は窓の外へ視線を投げ、やがて長い睫毛と共に静かに瞼を閉ざした。
───────────…
国境を越えてからしばらく走った後、休憩を挟んで二人はようやく安土城下へと至った。
実に一日半程かかった摂津から安土までの道のりだったが、行きと帰りとでは同じ距離であった筈でも、気持ちの問題だろうか、少し早く感じる気がする。
日は既に正午をとうに過ぎており、太陽の位置の感覚的には八つ(やつ/十四時)頃といったところだろうか。この刻限だとちょうど往来も人通りが多いだろうという事で、中央通りを避けて安土城へと至った二人であったが、城門前に待ち構えていた一人の人物を視界に入れると、主に凪がぎくりと背へ緊張を走らせる。
「……まったく、相変わらず律儀な男だ」
既に光秀は何度も経験済である為、慣れた様子だったのだが、凪としてはそうもいかない。
城門前で胸前に腕組をした男───豊臣秀吉の姿を捉えた金色の眼が面白そうに眇められた。