第9章 帰路
降り注ぐ太陽の日差しが凪の横顔を明るく照らし、真っ直ぐに前を向く漆黒の眼が光を帯びた所為でいっそうの輝きを見せた。生き生きとした姿は実に楽しそうで、彼女の横顔を流した視線で捉えた光秀の口元が綻ぶ。
「もうちょっとだけ速度上げても大丈夫ですか?」
「……まったく、仕方のない娘だ」
振り向きざま、風になびく黒髪をふわりと揺らして凪が悪戯っぽく笑った。返答など聞かずとも分かっているくせに、こうして振り返って問いかけて来る様がどうにも愛らしくて、つい男の口から柔らかな声が溢れる。
そうしてしばらく馬を走らせた後、手綱を軽く引いて緩やかな速度へと戻した凪が片手を離して馬の鬣を優しく撫ぜた。
まるで走らせてくれた事への礼を言っているような仕草のそれは、確かに扱いに慣れているもののようである。
「はあー…なんかすっきりしました。ありがとうね」
心の内にある曇ったものは風を切って走った事により、幾分良くなったらしい凪が、改めて葦毛の馬へ音に出して礼を言う。
光秀の提案、もといご機嫌取りには驚いたが、久し振りに馬を駆る事が出来て正直楽しかったし、実際に良い気晴らしにもなった。安土へ帰る事は確かに少し不安で気が重かったが、あまり深く考えていても良い事はないだろうと思考を切り替えた凪の横顔は少し前とは打って代わり、晴れ晴れとしている。
それを視界に捉えた光秀が微かに笑みを浮かべているとは知らず、手綱を彼へそっと返せば、腹部に回していた腕を解き、両手で再度手綱を男が握った。
「凪」
「はい?」
名を呼ばれ、振り返った凪の近くへ光秀の顔が近付く。
距離感に文句を言う前に、それを封じるよう彼の唇が音を紡いだ。
「俺への感謝の言葉はないのか?」
笑みを浮かべながら冗談めかして発せられたそれに、凪は僅かに眉根を寄せる。
「あれはご機嫌取りだったんですよね。じゃあ感謝の言葉はないです────…でも、」
きっぱりと言い切った凪の言葉に肩を竦めた光秀へ、ふと重ねるように彼女の言葉が鼓膜を打った。
何事かと微かに目を瞬かせた光秀の視界に、柔らかな笑みが映り込む。