第9章 帰路
光秀とはこうして気安く口が効ける程にまでなったが、それ以外の人々とはそうもいかない。
信長の験担ぎとして城に置かれている以上、彼らと全く顔を合わせないわけにもいかず、針のむしろに囚われている心地になったとしても仕方のない事だ。
「…どうした、凪」
正面で顔を確認せずとも凪の雰囲気が幾分落ち込んだ様子は光秀にも伝わった。おもむろに問いかけると、彼女はしばし逡巡した後、誤魔化すように眉尻を下げて笑う。
「あー…えっと、安土城に帰るんだなあと思って」
凪にしては歯切れの悪い言葉に一瞬眉根を寄せるが、続いた言葉を耳にしてすぐに合点がいった。
当初彼女を間者の類いかと疑っていた自分が言うのもなんだが、信長はさておき、凪の疑惑が少なくとも武将達の間では晴れてはいない。
(…とはいえ、疑っているのは秀吉くらいのものだろうがな)
三成はあの性格であるし、政宗や家康も場合によっては斬るといったある意味で割り切った性格であるからあまり心配はないが、秀吉はそうもいかない。
疑っているものがいる空間に留まるのは、そういった感情をあまり向けられた経験のない凪であれば尚更堪えるのだろう。
「城に帰りたくないか」
「うーん…まあ本音を言えば、そうですね。気は進みません。けど迷惑掛けるのも良くないし、なんか信長様の所有物みたいになってるし、そこまで我儘通そうとは思ってませんよ」
凪の性格であればそうなのだろう。なんだかんだ律儀なところがある娘である。気を遣って言っている事も分かっていた。
正面を向いたままで話す凪の揺れる黒髪を見つめ、光秀はしばし口を閉ざした後、やがて形の良い唇をそっと動かす。
「……城がそんなに嫌なら、俺の御殿へ来るといい」
「ええ!?」
零された音が鼓膜を打ち、さすがに驚いたらしい凪が咄嗟に背後を振り返った。見開かれた漆黒の眸が光秀を捉え、幾度か瞬かれる。
「……本気で言ってます?」
すぐさま半眼になって真偽を問うた凪だったが、それは仕方のない事だ。なにせ、振り返った先に居た光秀は緩やかに口角を持ち上げ、何処か愉しげな色を眼に灯している。