第9章 帰路
(……やれやれ)
己の感情を持て余しているような心地でもあり、満たされているような心地でもあり、それは光秀としてもなかなかに難解なものとも言える。
「だからまあ、色々言いたい事はありますけど、帰るまでが【芙蓉】って事で仕方ないからこの距離感はこれ以上文句言いませんよ」
「帰るまでが【芙蓉】、か…」
振り返っていた凪が正面を向きながら紡ぐ。
こういった類いの事はある程度慣れてしまったのか、あまりしつこく食い下がる事のない彼女の、発せられたそれを耳にして、光秀は凪が正面を向いているのをいい事に、ほんのり苦く笑ってみせた。
(【裏切り者】と【その隠し女】という役柄は、今思い返せば役得だったのかもしれないな)
そう考えてしまう程には、彼女自身を危険に晒してしまった事を除けば自分は存外あの設定を気に入っていたのかもしれない。思ったところでもう任は終わり、彼女はもう【芙蓉】ではなくなるのだが。
「……では、安土へ入るまでは俺も【芙蓉】としてお前を可愛がるとしよう」
「っ!…それは別に要らないんですけど」
「まあ遠慮するな」
長い睫毛をふわりと伏せた男は、やがてそれを持ち上げた後で顔を背後から彼女の耳朶へと寄せ、低く囁きかける。艶を含ませた低音はぞくりと肌を粟立たせ、唐突な行動で不意を衝かれた凪が物言いたげに眉根を寄せて振り返った。
緩やかな弧を口元へ刻み、そうして言い切った光秀に対して口を開きかけた凪だったが、このまま男のペースに乗せられるのも癪だと思ったらしく、思い立った様子で話題を切り替える。
「そういえば、一つ訊きたいんですけど」
「なんだ」
話題を変えた事には特に何も言わず、光秀は凪の言葉へ短い相槌を打った。
振り返ったままの体勢で、眉間に刻んでいた皺を自然と消した凪は有崎城付近の森での一件を思い起こし、何処となく複雑そうな面持ちを浮かべる。
「私が矢を射った事、光秀さん何も訊きませんでしたよね。いつもなら何故弓が使えるんだ、とか訊いてきそうなのに」
実は勢いで矢を射ってしまったものの、後から凪が案じたのはその事だった。弓矢を扱える事に関しては、別に言う必要も敢えて隠す必要もなかったが、機会がなかった為に告げていなかっただけである。