第8章 摂津 肆
「───…凪」
低く艶めいた音が薄い唇から発せられ、一つの名を紡ぐ。
柔らかな色を灯した金色の眸が凪の姿を見つめ、口元を微笑が飾った。ひとつひとつが端正で精巧な造り物のようなかんばせに乗っているのは優しい色で、それを間近で目にした凪の鼓動が跳ねる。
とくとく、と次第に大きくなっていく鼓動は自然と走り出し、まるで初めて夢からうつつへ至ったような心地になった。
「ありがとう、左肩の傷を防げたのはお前のおかげだ」
風で柔らかな銀糸が揺れ、木漏れ日を受けてきらきらと輝く様はとても美しい。眼を零れそうな程に見開いた凪のそれがやがて、歓喜を帯びてゆらゆらと揺れた。
「────…ふふ」
微かに鈴を転がしたような軽やかな声が甘い桜色の唇から零れ、光秀の鼓膜を打つ。
思わず瞠った金色の眼に映ったのは、眩い光を受けてゆっくりと蕾を膨らませ、やがて大輪の花を咲かせる花のような───初めて見る、凪の柔らかな笑顔だった。
「…っ」
咄嗟に息を呑んだ光秀の脳裏に、数日前のやり取りが過ぎる。
───私は、自分が笑いたい時に笑います…!今はその時じゃありません。
馬上でのやり取りの際、彼女は確かにそう言っていた。
どんな時に笑うのか、好きなものを目にした時か、特別な馳走を食した時か、あるいは好いた男の前でだけか。
何気なく思考を巡らせていたあの時の自分では、思いもよらなかっただろう。
「小娘とか仔犬とか色々言うから、てっきり私の名前、忘れちゃってたのかと思ってました」
(…こんなささやかな事で、笑える娘だったのか)
面白そうに茶化して笑う無邪気な姿が眩しく、光秀はそっと双眸を眇めた。両手が塞がってしまっているのが少し惜しい。
どうせならば、笑って綻んだ柔らかな頬に触れたかったが、彼女を落とすわけにもいかない。
「二度も言い付けを破るような、残念なおつむと一緒にされては困る」
「今回のはどう考えても不可抗力ですよ!」
「ほう、随分難しい言葉を知っているな。生憎今は両手が塞がっている。後で思い切り褒めてやろう」
「このくらい誰でも知ってます…っ」