第8章 摂津 肆
果たしてそういった類いを気にするのか、と思いながらもはっきりと言い切られてしまってはそれ以上何も言えず、凪は大人しく光秀に姫抱きのまま運ばれる事となった。
緩やかな足取りで城への道のりを辿る光秀の腕に揺られ、次第に遠くなって行く喧騒に凪は無意識下で吐息を零す。
身体の強張りが少しずつ抜けて行き、思った以上に自分が緊張していた事を今更ながらに知った。
もしかしたら光秀は、そういった事にも気付いていたのかもしれない。目の前には桔梗紋が刻まれた白の着物と、桑染色の長布があり、傍からはふんわりと嗅ぎ慣れた薫物の香りがして、そのまま流れるように左肩へ視線を向けた。
(怪我、してない)
左二の腕の傷は免れる事は出来なかったが、その箇所よりも酷い筈であった左肩の傷は確かに防ぐ事が出来たという事実に、凪の心が深い安堵に満たされる。
「………良かった」
ふと、か細い声が震える唇から落とされた。
拾い上げたそれへ視線を向けた光秀は、おそらく無意識だろう、握り締められている片手───一射投じた利き手が小刻みに震えているのを見て取る。
光秀が名を呼ばれて振り返ったあの瞬間、真っ直ぐにこちらを射抜く強い眸に、自分は確かに引き寄せられた。
弓を構える姿は凛として美しく、確かな決意と覚悟を秘めた漆黒の眼には一切の迷いがない。
敵を倒す為ではなく、誰も傷付ける事なく戦局を変える為の矢を投じる事への覚悟は、下手をすると確実に射止める為の覚悟よりも難しいだろう。
それを戦を知らぬ世からやって来た娘がやってのけたのだ。
片鱗はこれまでにも見えていただろう。
光秀を守る為に清秀の前へ立ちはだかった時も、光秀に危険を知らせにやって来た時も、そして今回も。
凪は自らの足で、信念と覚悟を持ちこの地に立っている。
凪はいつかは分からないが、平和な世へと帰る存在だ。
その時、一つでも余計な枷にならぬよう、名を呼ばず存在を曖昧にしてきた。名を呼ぶという事は、即ち相手の存在を認めるという事に繋がる。
(…これではもう、認めざるを得ないな)
ぬるい風が抜き抜けた。さわさわと木々が涼やかな音を立てて緑の葉を揺らし、二人の鼓膜を涼ませる。
不意にそれまで歩んでいた足をおもむろに止め、光秀が真っ直ぐに凪へ顔を向けた。