第8章 摂津 肆
「か、齧っ…!?」
微かにちくりとしたその感覚にひくりと震えた華奢な身体に、伏せていた瞼を僅かに覗かせた男は震える小さな手へ何処となく満足げに口元を綻ばせると自ら歯を立てたその箇所へ唇を寄せる。
「光秀さん…!」
咎めるような、羞恥の入り混じった声が鼓膜を打ち、低く笑いを零して寄せていた顔を離した。手を引き戻した彼女の眉根が顰められている様と、片手に持たれたままである簪───漆黒の玉飾りに真紅の錦木(にしきぎ)が描かれたそれへ視線を流し、眼を微かに眇めた。
(…錦木の花言葉は【危険な遊び】。あの男が遊びの範囲で済ませているなら、それに越した事はないだろうが)
「…あ、そういえば思い出しました」
光秀が無言の内に思考していると、凪がふと声を上げる。
一度思案を脳内から消し去り、意識を彼女の方へ向けるといまだ簪を手にしたまま片手を包み込んでいる凪が、光秀によって注がれる先を促す視線に口を開いた。
「亡霊さんが光秀さんに、えーと…【芙蓉、君に宛てたものに一切の偽りはない】って伝えてって」
「……ほう、それはそれは」
凪が怪訝そうに紡いだ音を耳にし、即座にその意味を察した光秀は目を見開くと、やがて冷笑を浮かべて眼の熱を消し去る。声色だけは何処となく愉快さを滲ませてはいたが、目だけは決して笑ってなどいなかった。
清秀が言わんとしていた事も、光秀が納得した事も、それぞれ全く理解出来ないでいる凪の訝しんだ面持ちを見やり、片手を伸ばして彼女の頭を軽く撫ぜる。
(……【心変わり】はしない、とそういう意味か)
やがて、複数の足音が二人の元へ近付いて来るのを察し、凪が反射的に身を硬くした。恐らく追手の類いだと思ったのだろう彼女を安心させるよう光秀は足音の方へ視線だけを流す。
「八瀬が呼んだ城の兵達だ。あの男達は拘束し、ここへしばらく留め置かせてもらうとしよう」
「…そう、ですか」
追手ではなく、城の者達だと耳にした凪は安堵に身体の力をそっと抜いた。八瀬が引き連れて来た有崎城の兵達は光秀へそれぞれ一礼すると、倒れている黒装束の男達へ次々に縄をかけていく。