第8章 摂津 肆
「…こんなの、いつの間に」
「実践してやった通りだ。…つまり、お前は俺を好いていると言ったにも関わらず、他の男の腕へ容易に抱かれたという事か」
「えっ!?」
胸の前で緩やかに腕を組んだ光秀は瞼を伏せて長い睫毛を揺らすと、至極残念そうな様子で深い溜息を漏らす。
「……やれやれ、他へ目移りされるとは、どうやら俺の可愛がりが足りなかったらしい」
「凄く誤解を生むような事言わないでくださいよ!そもそもそれは【芙蓉】としての設定であって…!」
やけに突っかかるような物言いをして来る光秀に対し、一体何事かと考えた凪だったが、とても不名誉な事を言われている事実に違いはなく、必死に言い募った。
しかし、彼女が芙蓉の名を口にした瞬間、それまで伏せていた瞼を持ち上げ、感情の見えない金色の眼を真っ直ぐに注ぐと光秀がぴしゃりと言い切る。
「【芙蓉】として会ったんだろう?」
「…うっ」
恐らく何もかも見抜いているだろうと察した凪が言葉に詰まった。手にした簪へ視線を落とし、やがて小さく頷いた彼女は森の中の出来事を簡潔にまとめて光秀へ語る。
「…簪の事は知りませんでしたけど、結果的にあの亡霊さんに助けてもらいました。八千さんには、自分が話をつけるからって」
「そうか…、ともかく無事ならそれでいい。他には何もされていないのか」
「…他?」
予想通り、ここへ至る前に清秀と接触していた事実に光秀が眉根を寄せるも、彼女が無事である事が優先事項の身としてはそれ以上の二の句は紡げない。
問いかけに首を傾げた凪は、ふと思い出したかのように片手を覆って、その手を背後へ隠すようにした。当然、それを見逃す光秀ではない。
「どうした、亡霊に手でも噛まれたか」
「や、なんでも!」
「昼日中からやけに活動的な亡霊相手に効くとも思えんが、今度から抹香でも持ち歩いておけ」
言いながら隠された凪の片腕を容易に自らの前に引き寄せた光秀は、先程彼女が庇った方の手をしっかり目にしていたらしく、その白く華奢な手の甲へ身を屈めた後で顔を寄せ、瞼を伏せると人差し指の付け根へそっと痛まない程度に歯を立てた。