第8章 摂津 肆
「…あの、私」
弓が転がる音で我に返ったのだろう凪が幾分掠れた音を発したと同時、その先の言葉を遮るかの如く、手を包んでいた光秀のそれがそっと離れて伸ばされる。
肩を抱き込み、片手を彼女の後頭部へとあてがった男によって凪の身体は抵抗する間もなく胸の中へと閉じ込められた。
虚を突かれた様子で漆黒の眼を瞠った彼女を他所に、光秀は長い睫毛の影を白い肌へと落とし、細い吐息を漏らす。
「光秀さん、ちょっと…っ」
「……少し、大人しくしていろ」
肩口へと顔を寄せている所為で光秀の声が耳朶のすぐ傍をなぞった。低く掠れた声が鼓膜へ直接注がれているような感覚に陥り、凪の背筋がぞくりと震え、思わず身を硬くする。
光秀はただ凪の身体を抱き締めたまま、少しの間動かなかった。やがて再度吐息を密やかに漏らした後で顔を上げた彼は、自らの胸の中へと閉じ込めていた凪へ視線を落とし、後頭部へあてていた手を戻すと固まっている凪の乱れた黒髪を優しく梳く。
「怪我はないか?」
静かな金色の眼差しが注がれ、そこに浮かんだ真摯な色に気付いた凪が首を緩く頷かせる。足の傷に関しては他者から与えられたものではないので、凪の中では怪我のカウントには入らない。
「ないです…ていうか、光秀さんの方が…っ」
「ここまでは一人で来たのか。八瀬の様子を見る限り、宿で一悶着あったんだろう?」
自分を庇って付いた矢傷について言及しようとした凪の言葉へわざと重ねるよう、光秀が更に問いを重ねた。先程城へと走って行った八瀬は宿内での山伏達との戦闘にかなり手こずったらしく、命に別状こそなさそうだが、そこそこ消耗具合が激しい様が見て取れる。
勘の良い光秀であれば、一体何が起こったのかなど仔細は分からずとも、検討くらいは付いているのだろう。確信めいた物言いに一度言葉を呑んだ凪だったが、隠し立てする必要もない為、小さく頷いた。
「…実は突然八千さんが宿に押し掛けて来て、私を迎えに来たって」
「お前を迎えに?」
「あの人、私の【目】を天眼通だって言って、御仏に選ばれた人だから、一緒に来て欲しいって言ってました」