第8章 摂津 肆
ほとんど衝動的に足を踏み出す。
光秀に助けられた際、彼の鋭い一撃によって吹っ飛ばされた男が転がる木の根元まで近付いた彼女はぐったりとしたその男から弓と矢を拝借すると木の幹へ背を預けた。
心臓が痛いくらいに脈動し、全身に巡る血は今にも沸騰してしまいそうだ。耳朶の裏側、手首から指先にかけて、じわじわと心臓から送られる熱い血が熱となり、身体へと行き渡る。
(───…怖い)
もし万が一、放った矢が敵とはいえ命や身体、あるいは光秀自身を傷付けてしまったら。
争いとは無関係な場所で生きて来た凪が、武器と名のつくものを人に向けるなど、決して容易な事ではない。
(でも、光秀さんがあんな事になる方が、もっと…───)
震えてしまいそうな指先を叱咤し、弓柄(ゆづか)を握り締める。
弓懸(ゆがけ)は無くとも連射さえしなければ弦(つる)は素手でも引けるだろう。指先で軽く弦を弾き、張りを確かめてから意を決したように凪は弓構え(ゆがまえ)の姿勢を取った。
右手に弦をかけ、左手の位置を整えると的を見ないままで打起し(うちおこし)の姿勢へ入る。つがえた矢の後端を持ち、そっと呼吸を整えた。
木の幹を背にした状態で木陰から窺えば、男達の中心に立つ光秀は襲い来る凶刃を防ぎ、やはり舞うような所作でそれを捌いている。しかし、恐らく矢に仕込まれていたのだろう、何らかの毒の所為で動きが僅かに鈍った光秀の背後を衝き、男の刀が振り上げられる。
(今…───!)
自身が【見た】光景の中で、光秀の左肩へ白刃が振り下ろされるだろうタイミングに合わせて木陰から姿を見せた凪は、それと同時に思い切り矢と共に弦を引き、即座に的を定めて声を上げた。
「光秀さん、右へ!」
「────…承知」
張り上げられた声へ鋭い視線を流した光秀は、凪が弓を構えた姿勢でいる事へ驚いたように一瞬目を瞠ったが、すぐさま口元へ微かな笑みを浮かべて応えると彼女の言う通り、身を右側へと翻す。
ひゅん、と短く鋭い風切音を奏でて凪の手から目一杯引かれた矢が放たれた。男の刀が光秀を狙って迫る間際、凪の力強い矢が甲高い音を立てて刀身へと当たり、弾かれる。