第8章 摂津 肆
屈み込んだままである凪を捉え、宿を出立した時に見た姿よりもぼろぼろになっている彼女を映し、やがて髪に挿された一本の簪を認め、僅かに眉根を寄せた彼はしかし、身を屈めて凪へ両手を伸ばして彼女を立ち上がらせると大きな手のひらで頭を撫ぜる。
「よく耐えた。…良い子だな」
柔らかい声色のその裏に感情を押し隠し、光秀が口元へ微笑を乗せた。注がれる金色の眼が柔らかく眇められ、凪が僅かに目を瞠ったと同時、すぐさま鋭い面持ちへと表情を塗り替えた光秀は彼女の腕を引いて自身の背後に隠し、懐から短刀を取り出せば、抜身のそれを投げ放つ。
先程凪に砂を掛けられた男が回復したらしく、再び襲い来るところを光秀が投げた短刀が肩へ鋭く突き刺さった。致命傷ではないが、思わず刀を取り落してしまう程の衝撃はあったのだろう、傷を負った肩を押さえながら男がうずくまる。
「…さて、諸兄らに問おう」
鯉口を切った抜身の刀を優雅な所作でうずくまる男の首元へあてがった光秀は、口元に怜悧な笑みを刻むと冷たい金色の眸で真っ直ぐに射抜き、肩を刺した短刀を引き抜いた後で血を払って懐へ収めた。
鼓膜を震わせる艶めいた低音は、敵に向けられれば些か冷やかで慇懃さを思わせる。
「たかが小娘一匹を多勢で追いかけ回すとは、諸兄らの主とやらは、余程高尚な趣味をお持ちと見える。是非その目的を教えてもらいたい」
この場に近付く複数の気配を既に察知しているのだろう光秀が、敢えて男を煽るような口振りで問いかければ、うずくまったままの敵は怒りを露わに声を張った。
「なにを白々しい!この化け狐め!八千様に手を掛けた事、決して許しはせぬ!!」
「……ほう?」
(…八千さんに手を掛けた!?)
男の怒声を受けても尚、光秀は笑みを深めるだけである。
それに対して凪は男の言葉に少なからず衝撃を受けていた。当然光秀が八千を手に掛けたなどありえない。あの場所には自分と八千、そして。
(あの亡霊さんが、八千さんを…)
中川清秀のみしか居なかったのだから。
恐らく黒装束の男達は、八千が事切れているのを目の当たりにし、それに手をかけたのが事実上最初から八千を騙していた事になる光秀だと判断したのだろう。