第8章 摂津 肆
(早く光秀さんに知らせないと…!)
本能寺で起こった信長暗殺事件の首謀者は、やはり光秀ではなかった。元々途中から信じてなどいなかった説だが、今回の情報を得た事で更に確信を強めた事実は、どうしてか凪の心を湧き立たせた。
それは、自分が信じるとはっきり告げた男が、それに関わっていた訳ではないという事から来る喜びにも似た感情である。
(歴史書の類いなんて、その時代に行って実際に見聞きした訳じゃないんだから、参考程度にするならともかく鵜呑みにするべきじゃないな)
元々歴史に詳しくない凪の柔軟な頭だからこそ至れるざっくりとした結論ではあったが、寧ろその方が彼女の思考はすっきりとしたような気がした。
「……はっ、あ…さすがに、しんどい…」
やがて周囲を一度警戒した様子で見回した後、大きな木の幹に背を預けて一度立ち止まった凪は、滲んだ汗を拭ってから深い息を吐き出す。呼吸が乱れ、肩が小さく上下している様から、いい加減自分自身の体力の限界を感じ始めていた凪が息も絶え絶えに呟いた。
木々の中に居る為、木陰が多い森の中は町中よりも幾分気温が低いものの、上がった体温の所為でなかなかそれを感じる事は難しい。いっそ打ち掛けを脱いでしまおうかとも思ったが、それを放って走るのは何となく気が引ける。
「……痛、っ」
足を止めた途端、再びやって来た鋭い痛みに小さく押し殺した声を発した。顔を歪めて視線を足元へ向けると、少し前に確認した時には白色だった足袋が両足共、土埃と内側から滲む血によって鈍い赤色に一部が染まってしまっている。
とうとう指の間が擦れて出血してしまったのだろう。じくじくと刺すような痛みを感じる中で、両足に再び力を込めてゆっくりと背を幹から離した。
少し休憩が出来たおかげで呼吸は幾分か落ち着いた為、まだしばらくはなんとか保ちそうだと自らを鼓舞し、歩き出す。
しかしその瞬間、彼女の後方から複数の足音が近付いて来ているのを捉え、どくりと鼓動を大きく跳ねさせた。
(…今度は誰!?)
咄嗟に身を屈めた凪は、そのまま木の影に隠れた状態で一度背後を確認する。間近まで迫っているわけではなかったが、彼女が通って来た道をそのまま辿って来たかの如く、複数の黒装束の男達が武器を手に走って来ていた。