第8章 摂津 肆
鯉口を切る微かな音すら鳴らす事なく抜刀した清秀の刀が、一歩彼の間合いへ踏み込んだと同時に一閃され、自らは返り血を一切浴びる事なく八千を斬ったのだと、その光景を見ていた者が仮に居たなら、後から気付くのだろう。倒れた男へ何の感慨もない視線を投げていた清秀はそうして、白刃に滴る真紅を一度払った後、刃を鞘へ収めた。
「嬉しそうな顔だね、八千殿。その喜びを噛み締めたまま逝けたのなら、きっと幸せなんだろうな」
既に事切れている男に対し、薄っすらと笑みを浮かべたままで囁きかけた清秀の声色には、微かな羨望が紛れている。
「…それでも、あの子はあげないよ」
唐突に消えた笑みと共に冷たい音が重ねられた。倒れている男には既に興味を失ったと言わんばかりに視線を外し、清秀は緩慢な所作で振り返る。その灰色の眼は真っ直ぐ、先程凪が駆けて行った方を見つめていた。
「あの子の価値は天眼通なんかじゃない。それが分からない貴方に、私の可愛い姫は渡せない。なんせ、彼女は私が求めていた運命かもしれないんだから」
瞼を伏せれば、凪の凛とした強い漆黒の眼が思い浮かぶ。向けられる感情が好意でなくとも良い。ただ自分を真っ直ぐに見てくれる、それだけで今は空っぽな心が満たされるような気がした。
「……酔芙蓉の花言葉は心変わり」
静寂を思わせる低く艶めいた音が、色を乗せる。
彼女に告げた通り、文と共に添えて来た花は光秀によって捨てられてしまっているかもしれない。
しかしそれでも構わない。自分の心は、既に彼女へ直接告げたのだから。
(もし君が、私の心を本当に満たしてくれそうだったら、あの文の内容は偽りのない真実になる。けれど、期待外れだったなら文の内容すら【心変わり】してしまうという意思表示だったのだけれど、きっと私からの言伝を彼女から聞けば、光秀殿なら気付いてくれるだろう)
「私達は、何処か似ているからね」
確信めいた言葉に肩を竦めて低く喉奥で笑いを零すと、凪の姿を思い起こした。果たしてあの男は、自分から【花】を贈られた状態の彼女を目にして、どのように思うのだろうか。
彼女の事は勿論、それに対する光秀の反応を思うだけでも清秀の心を愉快にさせる。