第3章 出立
「それ、本心で言ってます?」
緩やかに歩き出した馬が光秀の言葉に応えるよう、速度を上げて走り出した。初夏に差し掛かり始めた季節、僅かに湿気を孕んだ風が頬を撫ぜる。朝陽が柔らかな白んだ光で辺りを照らす様が視界の端を流れてきらきらと光った。風に乗る香りは現代では恐らく田舎でしか感じる事の出来ない自然のそれで、清涼でいてどこか懐かしさすら覚える。そこに混じる光秀の薫物の香りが、彼との物理的な距離の近さを凪へ再度認識させた。
まだしんと静まり返った城下に規則的な蹄の音を鳴らし、光秀のいう目的地とやらへ共に出発した凪が、本心の見えない男へ顔を向けて呆れ調子で言葉を投げる。
「当然だ。旅の道行きの間は俺とお前の二人きり。お前について知るには打って付けの有意義な時間だろう?」
「私は全然有意義じゃないですけど…!というか、馬上で尋問する気満々じゃないですか!」
明らかに面白がっている光秀の金の眼がすっと細められる。
心の奥底を覗いて来るようなそれに渋面し、逃げ場のない馬上で文句を言ってのければ男が喉の奥で低い笑いを零した。
「昨日の軍議から思っていたが、その警戒心を隠さない様はさながら毛を逆立てた小動物だな。そう怯えずとも、お前が良い子でいる限り、取って食いはしない。少しは肩の力を抜いて、女中に見せていたように笑ってみてはどうだ?」
軽く身を屈め、背後から意図的に唇を寄せた剥き出しの白く小さな耳朶へ低い吐息を注ぎ込む。そうして左手で手網を握ったまま、右手を持ち上げた光秀はそれを凪の憮然とした頬へ伸ばし、人差し指と親指で軽くつまんでみせた。
「…ッ!?」
低く紡がれた囁きに似たそれを懸命に我慢していたというのに、背後からの突然過ぎるスキンシップにびくりと肩を跳ねさせ、動揺に黒々とした双眸を見開いた凪が短く息を詰める。
つまんだ頬の感触を数度楽しんだ光秀は指を離す間際に、「随分な強ばりだ。折角の柔らかさが台無しだな」などと笑い混じりに告げ、何事もなかったかの如く再び手網を握った。
(明智光秀…って、めちゃくちゃ意地悪じゃない!?)
歴史の偉人と言えど、その人となりを知っているわけではない。初めて本能寺で会った時にも片鱗は見え隠れしていたが、ここに来て凪の中の明智光秀の印象がより明確なものになる。