第8章 摂津 肆
清秀のそれへ眉根を寄せた凪がむっとして反論している間、乱れた髪へ指先を伸ばした男が一つにまとめられた箇所へ挿されている彼女の紫陽花の簪を視界に映す。
「貴方が離してくれればいいだけの話ですよ…!」
「そう冷たい事を言わないで欲しいな。…しばらく、君に会えないかもしれないんだから」
酷く残念そうに告げた清秀は、背に回した自身の着物の袖口から何かを取り出すとそのままそれを気付かれぬよう彼女の髪へ挿した。
やがて腕の中に居る事に耐え兼ねたのだろう、凪が無理矢理腕を突っぱねて男の腕から逃れると、今度はあっさりと清秀は彼女を解放する。
「私は会えなくてもまったく問題ありません!」
「怒った顔も可愛いね、姫。…今度会う時には、その愛らしいかんばせに似合う大輪の芙蓉を君に贈らせて欲しい」
「今度なんてそうそうありませんから、お気遣いなく」
もがく事に必死で居た凪は、清秀が髪に簪を挿した事に気付かない。眉間に皺を寄せたままではっきりと言い切った彼女を前にしても、最初より更に機嫌の良さそうな笑みを浮かべた清秀は投げ出されたままである彼女の手を取り、優雅な所作で身を屈めると、白く柔らかな指先へ唇を落とした。
「なっ、性懲りもなく…!」
「知ってるかい、姫。芙蓉の花には他にも酔芙蓉(すいふよう)という種類があって、白から桃色へ花の色を変えていく事から、【心変わり】という花言葉があるらしい」
清秀の唇が触れた手を自身の方へ引き戻し、それを反対の手で抱え込みながら凪が一歩身を引く。
その警戒心も露わな表情を前に、形の良い唇へ弧を描いた男は自身の片手を持ち上げ、その白い手の甲へ自ら唇を寄せた後、微熱の乗った灰色の眼を愉しげに眇めた。
「君が光秀殿から私へ【心変わり】してくれるよう、願っているよ。…まあ、もしかしたら光秀殿にはもう捨てられてしまっているかもしれないけどね」
「……はい?一体何言って…」
言葉の意図を掴めず、怪訝な表情を浮かべた凪の背後で、それまで地面へ倒れ込んでいた八千が微かに呻き声を発し、それに気付いた彼女の身体がびくりと跳ねる。
一瞬にして面持ちへ緊張感と怯えを過ぎらせた様を目の当たりにし、清秀の眉根が僅かに動いた。