第8章 摂津 肆
「やっ、離して…!」
背後から掴まれた手首の拘束を解こうと必死にもがき、緊張と恐怖と不安とで早鐘を打つ鼓動を身の内に感じながら反対の手で男の手を外そうとする。
「それは罷り通らぬというものです。このわたくしと共においで下さい。御仏に遣わされし天眼通(てんげんつう)の御方よ。その先を見通す御目にて我らが一向宗の抱く悲願…───憎き信長の首を取る為、お導きを…!!」
「……なんで、目の事!?」
恍惚とした調子で口上を述べる八千が口にした単語に、凪は目を見開いた。天眼通とは、昨日光秀に【目】について語った際、彼が口にしていたものと同じである。
まさか宿での事を聞かれていたのか、と一瞬身構えた凪であったが、光秀がそんな下手を打つだろうか。すぐさまその可能性を自身の中で否定し、凪は必死に思考を巡らせた。
───そもそも今回の任は、先日起こった信長様暗殺の一件に繋がる可能性を探る為のものだ。
摂津へと向かう旅路の中で、当初光秀が言っていた事を思い出した彼女は、冷静さを取り戻そうと震える拳を握りしめる。
(八千さんは多分、私を殺そうとしてる訳じゃない。上手く聞き出せば、何か情報が掴めるかも…)
本当は今すぐにでもその手を振り払って逃げてしまいたかった。しかし、【目】の事がバレてしまったのも、こうして追い詰められる羽目になってしまったのも、自分の行動ひとつひとつが原因となって繋がっている。寝る間も惜しんで仕事をしている光秀の姿が脳裏を過ぎり、震える身体を叱咤して面持ちへ気丈な色を浮かべた。
「……私の【目】は、無理矢理私を従わせようとする者には使えません。離してください」
「……っ、申し訳ございません!」
突如淡々とした声を発した凪の毅然とした姿を前に、短く息を呑んだ八千が慌てて掴んでいた腕を離し、距離を取って地面へ両膝をつくなり深くかしづく。
「…一向宗の悲願ってなんですか?貴方達は信長様を倒したいの?」
「信長めは十年に渡る長き戦の末、あまりにもむごい死を同胞に与えた挙げ句、かの尊い御方から寺を奪いました。我らはその御方の為、信長に償いをさせると誓ったのです…!」
「……仲間の人達の、仇を討つ為?」
「おっしゃる通りでございます。御仏より遣わされし天眼通の御方よ。どうか我らをお導きください…!」