第8章 摂津 肆
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「…はっ、はあ…ッ!」
社会人となってこの方、ここまで全力疾走した記憶はついぞない。八瀬の合図と共に駆け出した凪は、宿の裏道を通って城下町へと向かっていた。
直進するな、との光秀の言葉通りに遮蔽物や障害物が多い、極力細身な凪しか通れない道を選んで町まで至った凪だが、さすがに延々と走り続けられる程の体力がないと自覚している為、次第に落ちていくペースに内心焦燥する。
遠くからは凪の、否、芙蓉の名を呼ぶ男の声がこだましていた。護衛と思わしき山伏達と八瀬が応戦していたところを走り際に見た為、恐らくは八千単体で追って来ているのだろうが、いかんせんあの男、なかなかにしつこい。
「…はあッ、もう!しつこいなあ!」
初夏の日中、涼しげな反物とは言え小袖と打ち掛け姿で走っていれば汗もかく。じんわりと額に滲む汗を手の甲でぐい、と拭い、不思議そうに自分を見ている町人達の合間を縫って宛もなく駆けていた凪であったが、失速すると共に名を呼ぶ八千の声が少しずつ近付いて来ている事に気付き、思わず身を震わせた。
(どうしよう、何処に行けば…!?)
先日、牢人達に絡まれていた時に助けてくれた光秀は居ない。
知り合いも頼る術も持たない凪にとって、誰かに助けを求めるといった選択肢は存在しなかった。下手に巻き込んで、取り返しの付かない事態になってしまう事が怖い。
自らを鼓舞するよう、拳を握り直した凪が取り入れがままならない酸素を吸い込もうと一度深く息を漏らしたと同時、背後から甲高い悲鳴や物が倒壊する音などが響き渡った。
咄嗟に路地裏へ身を滑り込ませ、そっと背後を窺い見ると、八千が往来を歩いている町人を無差別に手にした錫杖で薙ぎ払い、荷車に積まれていた荷物を怒り狂った様子で崩している姿が目に入る。
「邪魔だ!民草の者ども!!わたしの行く手を邪魔するな!」
(なにあれ!?お坊さんがそんな事していいと思ってんの!?)
凪の現代的な価値観からすれば、僧侶=とても優しい良い人、である。その真逆を地で行く八千に湧き上がる嫌悪感と怒りに眉根を顰めた凪だったが、ふとその原因が自分にある事に気付き、握った拳を震わせた。
(私が、町に逃げ込んだから…)