第8章 摂津 肆
(光秀さんを悪く言ってるって事は、亡霊さんともう接触したんだ。それで織田軍を裏切ってないって知った。…でもどうして私を迎えになんて、訳分かんない事…)
「凪様、合図をしたら裏口からお逃げください。私が足止め致します」
即座に思考を巡らせた凪へ僅かに顔を向け、八千に聞こえぬよう控えた小声で言葉を発した八瀬に、彼女は我に返った様子でそっと頷く。
万が一の時には躊躇わず逃げろと告げた光秀の言葉もあり、凪は気付かれぬよう、片足を音もなく引いて逃げの姿勢を整えた。
「さあ芙蓉殿…いえ、芙蓉様。わたくしと共にさ迷える門徒達を導きましょうぞ」
(いつの間に私、八千さんの中で地位昇格したの!?)
敬称まで言い直された事実にますます混乱を深めた凪だったが、それと同時、警戒を滲ませていた八瀬が声を張って板間を蹴る。
「今です!!」
「───っ…!!」
合図と共に二人はほとんど同時に動いた。
即座に身を翻した凪は、九兵衛が出入りしていただろう裏口から繋がる出口に向かって走り出し、宿を後にする。
それを視界の端に捉えながら八千に向かって間合いを詰めた八瀬が鋭い一撃を繰り出そうとするも、襖の影に隠れていたのだろう複数の山伏姿の男達が姿を現し、錫杖で八千を庇うよう前へ出た。
さすがに多勢に無勢といったところか、一気に囲まれてしまった八瀬が身動きを封じられ、防戦一方になる中で山伏達に庇われていた八千がおもむろに動き出す。
「お待ちくだされ、芙蓉様…!!」
血走った眼を見開き、土足のまま部屋へ上がり込んだ男が凪の後を追って裏口から出て行くのを歯噛みしながら見送る他なかった八瀬が、繰り出される山伏達の猛攻へ反撃を試みながら声に出さない叫びを漏らした。祈るような心地で刀の柄を握り締めた男が刃を振るう。
(どうか、どうかご無事で…───!!)
それは太陽が中天へ差し掛かる前、光秀が池田の話へ耳を傾け始めていた頃とほぼ同時刻の話であった。