第8章 摂津 肆
現代のような時間の概念がない戦国時代では、非常に曖昧な刻の数え方しか出来ないが、郷に入っては郷に従えというやつである。
片手を目の上へとかざしながら、あまり直視しないよう気をつけつつ空へ意識を向け、凪が太陽の位置を確認していたと同時、切羽詰まった声が突如として彼女の鼓膜を打った。
「凪様…!!」
それは一人凪の護衛として残された八瀬のものであり、母屋の周囲などを警戒してくれていたらしい彼はそのまま縁側に居た凪の元まで駆け寄る。
「ど、どうしたんですか!?」
「賊です、今すぐお逃げを…───」
草履を履いて咄嗟に立ち上がった凪を背に庇う八瀬へ、驚いた様子で問いかけた彼女へ向かい、護衛の彼は焦燥を滲ませて声を発した。しかしそれは、全てを言い切る前にけたたましく開かれた襖の音によって遮られる。
「お待ちください」
荒々しい音の後、覚えのある男の声が響き渡った。
びくりと肩を小さく跳ねさせ、顔を入り口の方へ向けた凪は、視界に映り込んだ人物を目の当たりにして短く息を呑む。
八瀬が静かに抜刀し、凪を庇った状態のままで僅かに腰を落とし、構えの姿勢をとった。
「は、八千さん…!?」
思いも寄らぬ来訪者に、つい芙蓉として接していた時の口調を忘れて素で呼んでしまった凪を見咎める様子もなく、名を呼ばれた男───八千はその面持ちに何処か恍惚とした笑みを浮かべる。
「わたしくめの名を覚えていてくださるとは恐悦至極。そしてこの上なき光栄の極み。どうぞご安心ください。わたくしが貴女様を、悪しき狐の手よりお救い致します」
「…は!?」
片手を胸に当て、尊いものへ語りかけるような様子の男を前に、凪は思わず目を見開いた。先日とはあまりにも違い過ぎる八千の態度はどう考えて異常であり、怪訝な面持ちで短く言葉を返した凪が思わず険のある眼差しを男へ向ける。
(……ていうか、悪しき狐って)
脳裏に白い裾を翻した銀糸の男の姿が過ぎる。さらりと流れる色素の薄い髪に映える金色の眼が眇められる様を連想させたその言葉に、何らかの異変が起こった事を悟った。