第8章 摂津 肆
危ない事や怖い事がまったくないとは言えなかったが、それでも凪は恵まれていると言わざるを得ない。
(……色々思うところはあったけど、この旅の中で私はずっと光秀さんに守られてた)
頬を撫ぜる少し生ぬるい風が、両耳横に一房ずつ残した凪の黒髪を揺らす。
実質三泊四日もの間、世話になった母屋の部屋をせめて綺麗にしておこうと朝から掃除をしていた事もあり、すっかり一室は初日のように整然とした姿になっていた。
縁側に腰掛けながらおもむろに振り返り、視線をぐるりと巡らせた先で止まるのは、光秀が腰掛けていた文机である。
当然机上には何も残されていないが、瞼を伏せると光秀がそこで書き物をしている姿が容易に思い浮かんだ。
───燭台を手元へ手繰り、橙色の心もとない灯りの中で視線を紙上へ向ける男の伏せ気味な長い睫毛が微かに揺れ、ふとそれが凪を見やる。その僅かな一瞬、光秀の涼やかな目元が微かに綻ぶ様を前にしてしまうと、言いようのない感情を湧き上がらせ…───
(───…って、何考えてんの!?)
あまりにも自然に浮かび過ぎて、その事実に内心驚いた凪は慌てた様子で瞼を持ち上げ、室内へ向いていた身体を庭先の方へと戻す。
(ちょっと長く一緒に居過ぎた所為で、居ないのが変とか思ってるけど、そもそも今までの距離感が可笑しかったでしょ!?落ち着いて、自分…!!)
誰に言い訳するでもなく、自分自身の内面に言い聞かせた凪はざわめく鼓動が次第に早鐘を打っていくのを感じ、胸の辺りに片手を当てて大きく深呼吸した。
一人で無駄にせわしなくなっている事が次第に恥ずかしく思えて来た凪は、再度息を漏らした後でそっと顔を伏せる。
紹介された光秀の家臣の一人───八瀬(やせ)と呼ばれたその人から、九つが現代でいう正午を指している事を教えられ、日中においては太陽の位置で大まかな時刻を見るのだと、酷く不思議そうな表情ながらも伝えてくれていた。
凪が現代からやって来た事を知らない八瀬からしてみたら、酷く物を知らない人間だと思われただろうが、そんな事はいちいち気にしていられない。
(今の位置くらいだと…真ん中に来たら正午だから、十一時前後くらい?)