第8章 摂津 肆
気配を探ってみたところで一切何も感じないその空間へ足を踏み入れ、緩慢に部屋の奥へと歩んで行き、やがて一台の文机の前で立ち止まれば、彼はそこに置かれたものを視界に捉えて金色の眸へ冷たい色を過ぎらせる。
文机の上に置かれていたのは、綺麗に折りたたまれた一通の文と、そこへ添えられていた、白から淡い桃色へ色を移り変わらせている途中で摘まれた、一輪の芙蓉の花。
それを見ただけで文へ目を通さずとも差出人を察した光秀は、伸ばした指先で花と共に文を手に取り、微かな音を立ててそれを開いた。しばしの間、紙上へ視線だけを滑らせていた光秀だったが、流麗な綴り文字の内容をすべて読み終えたと同時───文だけを片手でぐしゃりと握りつぶす。
「……これは、なかなかに面白い」
落とされた呟きの内容と、光秀の声色がまったく合っていない事を突っ込んでくれる相手は残念ながら居なかった。握りつぶしはしたものの、一度瞼を閉ざして己の感情を消し去った男は、そのまま皺の寄った文を適当にたたんで懐へと仕舞い込み、片手に持った芙蓉の花へ視線を落とす。
見事に花開いた大輪の芙蓉の花は、恐らく朝摘まれたばかりなのだろう。瑞々しい大きな花弁へ親指を這わせれば、柔らかくしっとりとした感触を伝えて来る。
不意に視線を片側だけ開け放たれた障子へ投げ、日の高さを確認して、もうすぐ四つ半(よつはん/11時)頃になるだろう事を見て取れば、手の中の花をそっと文机の上へ置いた。
「光秀様…!」
唐突に背後から声が掛けられ、咄嗟に刀の柄へ手をやりながら振り返るも、すぐ様映り込んだ姿を認めて添えていた片手を下ろす。本丸御殿内へ駆け込んで来たのは、地下牢へと向かわせた九兵衛と、幾度も顔を合わせた事のある男である。
九兵衛がやや控えたところで片膝を付き、次いで男が光秀の前でくずおれるようにして両膝を付いた。
「明智殿…まことに面目ない…!!!」
畳へ額を擦り付ける勢いの男を前にして、光秀は腰を屈めると相手へ視線を合わせるよう片膝を折る。伸ばした片手でそっと震える男の肩へ触れ、口元へ微かな笑みを浮かべて見せた。
「ご無事で安心致しました。池田殿」
光秀の前へやって来たのは、有崎城現城主である池田之助(いけだもとすけ)である。