第8章 摂津 肆
「九つの頃(正午)辺りには迎えに来る。それまでお前は良い子で待っていろ。いいな?」
「……分かりました。今度はちゃんと待ってます」
一緒に行くと言ったところで、足手まといになるかもしれない。
ここ数日まともに休んでいないだろう光秀の負担や枷になるような事はしたくないと咄嗟に考えた凪は、珍しく素直に頷いてみせた。
堪えるように引き結ばれた淡い色の唇へ視線を落とし、彼女が考えているであろう事を察した光秀は、一度瞼を伏せた後、真摯な金色の眼を覗かせ、頭へ置いていた手ともう片方の手を持ち上げると柔らかな両頬を包み込む。
「っ…、」
僅かに身を屈め、そうしてそのまま凪の顔を上へやんわりとした所作で向かせた後、間近に覗き込んだ漆黒の眸を見つめながら音を発した。
「…もし、何かあった時は躊躇わず逃げろ。直進は避け、遮蔽物や障害物の多い場所を出来るだけ選び、そこを通れ」
有無を言わせぬ張り詰めた雰囲気が、再び凪を自然と頷かせる。真剣な面持ちでしばらく彼女を見つめていた光秀であったが、やがてするりと両手を離して屈めていた体勢を戻した。
不意に視線を障子が閉め切られたままである庭先へ流した光秀は、それまで浮かべていた真摯な色を消し去ると、口元へ弧を刻む。
「…土産話も幾つか仕入れた事だ。早々に済ませ、安土へ戻るとしよう」
長い睫毛を伏せた光秀が一言告げて、身を翻そうとした。
ふわりと揺れる袴の裾と銀糸が自身から一歩遠ざかったのを見た瞬間、何故かいい知れぬ胸騒ぎのようなものを覚え、咄嗟に微動だにしなかった凪の手が動く。
「待って、光秀さん」
少しばかり揺れた彼女の声に気付き、光秀が足を止めた。
振り返ったと同時、伸ばされた凪の両手が光秀の肩に掛かった桑染色(くわぞめいろ)の長布を左右でそれぞれ握り、ぐいと自らへ近付けるよう引っ張る。
一歩距離を詰めた凪がぐっとつま先立ちになり、長布を引かれた事で、僅かに身を屈めるような体勢になった光秀の目が見開かれた。
そうして光秀の額にほんの一瞬、かすめるような柔らかな熱が触れて即座に遠ざかる。
「……っ」
そっと呑んだ息の微かな音は、果たして彼女に聞こえてしまっただろうか。