第7章 摂津 参
「なにか言いました?」
「……いや、お前を膝に乗せるという仕置きは、存外効くと思ってな。今後も有効的に取り入れてやるとしよう」
「要りませんよそんなの…!」
庭へ向けていた視線を凪へ戻し、瞼を伏せながら微かに肩を揺らした光秀は、間髪入れず飛んで来た文句を耳にしながら、口元を微かに綻ばせたのだった。
──────────…
その男は、急ぎ足で人混みの中を縫うように進み、やがて城下の外れにある一件の宿へするりと身を滑り込ませた。
逢魔が時が近付く時分、まだ燭台に灯りを灯さずとも室内で互いが認識出来る明るさを保っているその中を進み、最奥にある一室の前でおもむろに足を止める。
閉ざされた襖の前で片膝をついて声をかければ、中から程なくして入室の許可が下り、両手で目の前のそれを静かに開いた。
一室には数こそ少ないが、造りの良い調度品が置かれている。
障子を閉ざしている為、茜色の光がそこに射し込む事はなく、部屋の奥で文机の前に座していた男が書き物の手を止めた。
入室した後で襖を静かに閉め切り、低頭した状態で両膝をついた男は、町人の着流しをまとってこそいたものの、僅かに開いた油断の無い冷たい眼から感じられる雰囲気は民草とそれと表現するには些か違和感がある。
「……何事かあったか?香車(きょうしゃ)」
何処か怪訝な様子で問いを投げた男が、手にしていた筆を硯へ置いた。一度文机の前から立ち上がり、部屋の入り口付近で香車と呼んだ男の近くへ腰を下ろす。
さらり、正座をする間際、男のまとう袈裟が揺れた。
「はっ、お耳に入れたい事がございまして、参上仕りました」
「一体どうしたというのだ」
香車は先を促す男を前に、薄い紫紺色の眼を眇め、僅かに上体を起こす。
覗いた香車の顔は、まだ二十を幾つか過ぎた程の若者であり、整った面(おもて)は町娘に色目を向けられる事数多であろうと推測させるものであったが、唯一左目付近から頬の中程まで縦に刻まれた傷が、それを幾分か損なわせていた。
乱れた黒髪は、町人の身なりをしているが為に合わせたものだろうか。高い位置で結い上げた黒髪は長く腰へと流れている。
「実は先程、町中で実に興味深い事をこの耳が捉えまして。…八千様、先日の会談で、明智光秀が女を連れていたと仰っておりましたね」