第6章 摂津 弐
月光の強い光を集めたような彼の眼が真っ直ぐに凪へ注がれ、口元の笑みが消えた男の表情はどこか物言いたげであったが、結局声に乗せられたものは何もなかった。
代わりに、頬に触れていた親指が彼女の輪郭を辿る。
そのまま淡く色付く唇へ辿り着いた指先が、形を確かめるかのように下唇をひどくゆっくりとなぞった。
「!?」
驚きに言葉を発する事も出来ない凪の眼が零れんばかりに見開かれ、動揺にゆらゆらと揺れる。その表情があまりにも無防備で、親指の腹から伝わる柔らかな感触をじかに感じながら光秀は口元を僅かに引き結んだ。
昨日、宿で紅を引く際に戯れで触れた時よりも、指先に確かな感触を残す凪の唇が微かにわなないたと同時、光秀はするりとそれを下ろす。
驚きと羞恥と動揺。間近に見た凪の大きな双眸に様々な感情の揺らぎを見た光秀だったが、明確な拒絶だけは浮かんでいない事を見てとり、自らを見上げたまま固まっている凪へ僅かに身を屈めた。
唇に触れていた片手で彼女の整えられた前髪を軽く上げ、露わになった白い額へ唇を寄せると、そのまま躊躇う事なく睫毛を伏せてそこへ口付ける。
「────…っ!!!?」
表情を見ずとも分かる、彼女の驚愕に息を呑んだ姿を脳裏で思い描き、わざと微かな音を立てて唇を離せば、片腕で抱き込んでいた小さな身体がびくりと跳ねた。
伏せていた瞼を持ち上げた瞬間、耳朶まで朱を散らした姿が目前にある事に、つい男の口元が緩む。真っ直ぐに注がれる黒々とした眼が心地良い。
絶句しているのか、羞恥で言葉を発する事を忘れてしまっているのか、とにかく珍しく何事も発する事のない大人しい唇を見やり、光秀は口角をゆるりと持ち上げて眼を眇めた。
「…頑張った仔犬に、飼い主からのご褒美だ」
「なっ!!」
わざと揶揄めいた調子で言ってのけた光秀の笑みを目の当たりにし、空気に呑まれてすっかり何も言えなかった凪の声が険を帯びる。
文句が飛んで来る前にと身体を抱き寄せていた腕を離し、そのまま光秀が両手で包み込むよう凪の手を取った。