第6章 摂津 弐
「……光秀さん」
一度は足元へ逃した視線を、凪は再び光秀の横顔へ向ける。小さいながらも凛とした声が光秀の鼓膜を打ち、一度緩慢に瞬きをした彼は、しばしそのままで歩みを進めていたが、ふと繋いだ側の腕に違和感を覚え、足を止めた。
「光秀さんってば」
立ち止まった拍子に振り返ると、違和感の正体に気付く。
再度声をかけて来た凪が、繋がれていない方の手で光秀の羽織の袖を握り、二度引っ張った。
白く小さな手が自らを引き止める様を視界に映し、つい先刻目にしたばかりの、震えていた指先を思い出す。
無論、今は震えてなどいなかったが、その光景を脳裏に過ぎらせてしまえば、凪の指先を無碍にするなど光秀には出来る筈もなかった。
「……少し、速く歩き過ぎたか」
思えば凪の足取りよりも、少しばかり歩みが速かったかもしれない。袖を掴む指先から視線をずらし、凪の顔へ意識を向ければ、光秀を真っ直ぐに見つめていたらしい彼女の瞳とぶつかり合った。
物怖じしない漆黒の瞳が、金色のそれと混じり合うとやがて、凪の眉尻が少し困ったように下げられる。
「それは全然大丈夫です。…そうじゃなくて、」
問いかけを否定した後、凪は僅かに逡巡してから何かを決した様子で表情を改めた。
「心配かけてごめんなさい。でも、あの時やらなきゃよかった、とか、そういう風には考えたくないんです。……だから光秀さんも、【芙蓉】なんて作らなきゃよかった、なんて思わないで」
真っ直ぐな謝罪を伝えて来た後で凪は光秀の眸を逸らす事なく見つめ、淀みなく言い切る。
彼女が言わんとしている事を察し、光秀は僅かに眼を瞠った。
繋いでいた男の指先から力が抜け、するりと自然に凪の手が離れて行く。特に力を入れていなかった凪の手があっさり落ちて行く様から、自らの指先が思っていた以上に強張っていた事に今更ながら気付くと、光秀の眉根が僅かに顰められた。
本当は少し、心の奥底で後悔をしていたのかもしれない。
凪を巻き込んだ事、彼女を守る為の布石によってその身を危険に晒させてしまった事。
平和な世で安穏と暮らして来ただろう凪に、乱世の業を目の当たりにさせてしまった事。