第6章 摂津 弐
加減なく平手を食らわせた凪は、手のひらがじんわりと痛む事も気にせず、それを無造作に下ろして明らかな怒りを表情に乗せ、語気強く言い放つ。
「好きでもない人にこんな事されて、傷付かない人が居ると思ってるの!?この嘘つき…!!」
何だかんだと文句を言われたり、噛み付かれたりしていたとはいえ、光秀とてここまで感情を露わにした凪の声を聞くのは初めての事だった。
静けさを裂いた彼女の声を間近で受け、片頬に広がる鈍く滲みるような痛みに少しの間虚を突かれていた男は、見開いた灰色の眼を一度瞬かせた後、緩慢な様子で凪へ再び向き直る。
凪を見下ろせば、いまだ怒りが燻っているのか、逸らされる事のない漆黒の双眸が怖気づいた風など一切なく、男を射抜いていた。
「…女性に頬を打たれたのは、生まれて初めてだな」
ぽつりと感情が抜け落ちた様子で呟きを落とし、凪の頬を撫でた片手で、微かな熱を持つその箇所に触れる。次第に感情の色を乗せて行く男の灰色の眼が焦点を合わせ、改めて凪を映した。
まるで、初めて凪がそこに居る事を認識したような様に、彼女が眉間の皺をいっそう深める。
「じゃあ今まで余程運が良かったんですね」
もはや飛び出した当初の怯えなど、凪の中からは怒りと入れ替わりですっかりなくなっていた。
無愛想に言い切った彼女を前にして、自らの頬へ触れていた手を下ろした男は瞼を伏せると微かに首を左右へ振り、そうしてゆっくりと灰色の眼を覗かせる。
「……いいや、逆だよ姫。私はきっと今まで、運が悪かったんだ」
「…?なに言って─────」
男の意図が理解出来ず、怪訝に眉根を寄せた凪が疑問を口にしようとした瞬間、彼女の肩を捉えようと目前まで近付いた腕に息を呑んだ。
しかし、それと同時にここ数日ですっかり慣れた温度が凪の肩をぐいと背後から後方へ引っ張る。
「……あっ!?」
ざっ、と土を踏み締める短い音と共に覚束ない足取りで数歩後退した凪の視界いっぱいへ広がったのは、闇に溶けてしまいそうな漆黒の羽織をまとう光秀の背中と、月光を帯びて淡く輝く銀髪だった。