第6章 摂津 弐
彼女の背後に油断なく佇む光秀は、男の発言に対して口を開きたい衝動を抑え込み、無表情のまま双眸眇めた。
(今ここで俺が動けば、凪の行動が無駄になる)
芙蓉を容易に切り捨てる事が出来る光秀が、彼女を何らかの形で庇ってしまえば、凪が必死に守ろうとした役割が一瞬にして失われてしまう。
内心で眉根を静かに寄せた光秀の指先が、そっと拳を作った。
一方予想外の男のそれに目を瞬かせた凪は少しの沈黙の後、緩慢に光秀を庇うよう広げていた両腕を下ろし、地面へ縫い止めていた足を一歩踏み出す。
躊躇いが過分に見えるその姿はしかし健気で、男の心をいやにくすぐった。
「…安心していい。私に女性を傷付ける趣味はないよ。だから君を傷付けたりはしない…約束する」
「…わかりました」
蜜を捧げるような甘い声に眉根を寄せ、凪は一度止めた足をそのまま数歩進めて、男が手を伸ばせば届く距離で立ち止まる。
光秀と同じくらいである長身の男を見上げては、真っ直ぐにその灰色の眼を見つめた。距離を詰めた事と顔を上げた事によって先程よりも明確に認める事が出来た凪を見やり、月明かりが照らす彼女の姿に口角を持ち上げる。
おもむろに持ち上げた片手が、そっと白い頬へ触れた。
「綺麗だね、姫。光秀殿に気持ちを向けて貰えないのなら、そんな薄情な男の事は忘れて、いっそ私のものになってしまってはどうだい?」
「────……は?」
これまでの流れとまったく脈絡の無い、突拍子の無さ過ぎる男の発言を耳にした凪の強張った面持ちが、怪訝を通り越して虚を突かれた無防備な表情になる。
短く発した音など気にした風のない男が指先で再び頬を撫ぜ、そのまま流れるような所作で身を屈めると顔を上げたままの凪の唇へ、自らのそれを軽く触れ合う程度に重ねた。
「────…ッ!!?」
刹那、驚愕で見開かれた漆黒の眼に明確な怒りを過ぎらせ、先程まで恐怖で冷たくなっていた筈の片手を半ば反射的に持ち上げると、そのまま男の頬を思い切り平手で打つ。
パァン、と小気味良い音が静寂に響き渡り、頬を張られた男は勿論の事、凪の背後で様子を窺っていた光秀も突然の事態に面食らったかのごとく眼を瞠った。