第6章 摂津 弐
昼間、一度森を訪れた時から既に自分の存在が知られていたという事実に驚きを見せた凪は、前方で繰り広げられる二人のやり取りを耳にしながら内心で焦燥した。
幸い、男の方はひとまずあの場から動く気配はなさそうだった。
わざわざ自分が出て行って足手まといになるくらいなら、この場で出方を待った方がいい。
ぐるぐると頭の中で様々な考えを巡らせ、凪は自らを落ち着けようと片手を胸へあてがった。
「………」
「光秀殿の好い人なら、とても興味があるな」
肯定も否定もしない光秀に対し、言葉を重ねた男は含みをもたせた調子でわざとゆっくりと囁く。
ふと光秀の肩越しへ向けていた視線をそのまま彼へ戻し、面白そうに眇めた灰色の眼に、愉悦の色がちらりと覗いた。
それを目にし、そして男の問いかけに沈黙を貫く光秀の後ろ姿を認めた瞬間、凪の中で形にならず渦巻いていた疑問が明確な輪郭を捉え始める。
(【芙蓉】は、いつでも切り捨てられる都合の良い存在。つまり、設定上光秀さんは【芙蓉】に執着していない)
───だが危険になれば迷わず逃げろ。…いいな?
(あの矛盾した言葉は、それだけの意味じゃなかったんだ)
何故【芙蓉】という偽名まで用いて架空の存在を作り上げたのか、光秀に執着を持たれていない都合の良い女の設定であるのか。それはつまり、【凪】という存在に何らかの形で敵が辿り着かないようにする為の配慮だったのだ。
光秀は裏切り者の仮面と、織田軍の武将という二つの顔を持って行動している。とても危険な綱渡り状態の彼の傍は、敵地であれば当然危険が増す。
その時、傍に居る者が光秀にとって少なくとも価値のある存在だと認識されてしまえば、凪の身にも危険が及んでしまう。
(私だけじゃない…それを逆手に取られてしまえば、光秀さんも危なくなる)
何故なら、光秀は信長に約束をしていた。
───無事俺の元へ返して寄越すのならば、構わん。
光秀は信長の言葉に従い、凪を無事安土へ連れ帰られなければならない。
そしてそれを違えるような人物でないだろう事は、たった数日ではあるが、光秀を見てきた凪にも容易に想像がつく。
(【芙蓉】が、光秀さんの弱点になるわけにはいかない…!)