第6章 摂津 弐
「余程の間抜けでない限り、蔵番の一人くらいは置いている」
「確かに…」
注意深く蔵の様子を窺いながら、光秀が短く鼻で嗤う。
眇めた視線をぐるりと見回し、気配を探ったところでやはり見張り番の気配はないようだった。
不意に意識を蔵の奥へと向け、その先にある有崎城の主を脳裏へ思い浮かべた光秀は、自身の中に湧き上がった疑念へ僅かに眉根を寄せる。
(城の敷地内にあったからといって、池田殿が関与している可能性は低い…有崎城の亡霊とやらは、この蔵を町人に見られる事を避ける為の与太話か。では、実際に見たという者と数刻前の視線は…)
光秀が現有崎城城主である男の顔を過ぎらせた刹那、ざあ、と強く吹き抜けた風によって木々が大きくざわめいた。
蔵の入り口に差し込まれた松明の炎が大きく揺らぎ、不規則な灯りを散らす。やがて自然の音以外が存在していなかったその場所に、微かな足音が近付いて来るのを耳にし、光秀は凪の片腕を掴んで自身の背で覆い隠した。
草履が地面の土を踏み締める音は次第に大きくなり、やがて木陰から密やかに様子を窺う二人の視界に、ぼんやりとした影が映る。
光秀の眼が唐突に険を帯びた。その影からそっと様子を窺った凪はどくどくと緊張感から早鐘を打つ鼓動を落ち着けるよう拳を握り、暗闇の中へ目を凝らす。
蔵の奥から緩やかな速度で歩いて来たのは、薄闇に溶け込みつつも淡い輪郭を露わにした一人の男だった。
松明の心もとない灯りを浴び、蔵の前にある幾分ひらけた遮るもののない場所で立ち止まった男は、姿を見せていない光秀と凪がまるで最初からそこに居る事など分かっていたかのような素振りで口を開く。
「一体いつ会いに来てくれるのかと、指折り数えて待っていたよ───光秀殿」
(…こっちが誰なのかバレてる!?)
低く艶のある調子で穏やかに声を掛け、光秀の名を呼んだ男は薄い唇へ弧を浮かべた。左側の耳横の髪を一房黒い飾り紐で結んだ以外は、結わずにそのまま背へ流した白藍(しらあい)の長い髪が風に揺れる。
不意に男の姿を気まぐれな月明かりが照らし出した。
闇の中でぼんやりとしていたその姿が月光の元にさらけ出されたのを目の当たりにした瞬間、光秀の眼がほんの僅かに見開かれる。
(あれが、有崎城の亡霊…?)