第6章 摂津 弐
「なに、転びそうな仔犬を支えてやるのも、飼い主の務めというものだ」
「……お礼を言ったのに損した気分なんですけど」
「どうした、早速ご機嫌斜めか?」
「人を癇癪持ちみたいに言わないでくれます?」
とうに夜目に慣れている視界には、凪の不服げな顔がはっきりと映っていた。木々の隙間から覗く月明かりが射し込む場所以外は真っ暗な闇の中だというのに、意外にも凪は怖がっている様子がない。
(女子供であれば、夜の森など恐ろしくて行きたくないと駄々をこねるものだと思ったが…案外肝が据わっている)
思い返してみれば、凪は警戒心が強く人見知りではあるものの、臆病といった性格ではなかった。光秀に対しての言動でも見え隠れしているが、あまり物怖じもせず、年頃の娘にしては思い切りが良く、度胸があり、察しも思った程悪くない。
(そういえば、この娘は本能寺で信長様を助けたんだったな)
あの時はにわかに信じがたいと思っていたが、今ならば納得が出来る気がする。
果たして信長が凪の性格をどこまで把握しているのかは定かではないが、なる程気に入られるのも頷けると内心で光秀は肩を竦めた。
「夜の森は怖くはないのか」
「え、なんです急に?」
何気なく問いかけたのは、興味が沸いたからだ。
普段行う尋問や質問とは異なる、知ったところで何の得にもならない情報を求めたとて意味などないというのに、ふと口をついて出てしまった。
光秀の唐突なそれに目を瞬かせた凪はしかし、特に気にした様子もなく隣を歩きながら、顔を空へ向ける。
高い木々の合間からは気まぐれのように月が顔を覗かせ、淡く柔らかい色合いで彼女の顔を照らした。
「…子供の頃、森で迷子になった事があるんですよ。あの時は一人だったからかなり大変でしたけど、それに比べたら全然怖くないです」
「ほう?童(わっぱ)が一人でよく夜の森を抜け出せたものだ」
「…たまたま、運が良かったんだと思います。それにほら、今は一人じゃなくて光秀さんも居ますし」
ぱっと横を向いて光秀を視界に映した凪が微かに口元を綻ばせる。肝心な事は何も明かしていない、任についても満足に答えてやる事もしない、そんな自分に向けられる真っ直ぐな信頼はどこか心地良く、少しばかり苦い。