第5章 摂津 壱
「…え?」
唐突に声をかけられ、湯呑みから顔を上げた凪は目を瞬かせた。文机の前に座っている光秀の眼差しが真っ直ぐに自分へ注がれているのを目の当たりにし、誤魔化すように湯呑みを置く。
「別になんでもないですよ。ただちょっと疲れたなって思っただけです。今日一日で何か色んな事があったような気がして」
「…そうか、てっきりお前のおつむでは処理し切れない、余計な事を考えているのかと思ったんだが」
(…訊いたって答えてくれないくせに)
凪の言葉が取り繕いだと気付いているのだろう、淡々とした声が彼女の不満を的確に突いて来る。
訊く事はする割りに、光秀は肝心なところで必ずはぐらかすのだ。そっと不満げに顰めた表情を目の当たりにした男が、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「俺がお前の問いに答えてやらない事が不満か?」
「……っ、また私の心の中と勝手に会話する」
「それはすまない事をした。なにぶん表情を読むのは得意なものでな」
意地の悪い言葉の応酬に成果など到底見える筈もなく、凪が反論を紡ごうと口を開きかけた瞬間、閉め切られた襖の向こうから控え目な声がかかった。
「九兵衛か。入れ」
入室の許可を得た部下は正座のままで襖を静かに開け、一礼する。彼の横には二人分の膳があり、先程厨を訪れた際に彼が準備していたものである事に気付くと、凪は咄嗟に腰を上げかけた。
「凪様もどうぞそのままで。私の務めですので…ですが、お気遣いいただきありがとうございます」
「いえ、私は何も…」
やんわりと静止されてしまえば、それ以上言い募る事も出来ない。微かな笑みを零した九兵衛は二人分の膳を部屋の中央へ向かい合わせになるような形で置き、そのまま入室時と同様一礼してから静かに立ち去った。
「…だいぶ遅くなったが、夕餉にするとしよう」
「……すごく誤魔化されたような感じがするんですけど」
「そう不貞腐れるな。いい加減腹も減った頃だろう?」
再び二人きりになった空間で、話は終いだとでもいうように光秀がおもむろに腰を上げる。
いまだ化粧台の前に居る凪を見やり、首をかしげるようにして問いかければ、彼女の視線がもの言いたげに男を軽くねめつけた。