第5章 摂津 壱
「…ほう、お前の世ではこの文字は使われていないのか」
「使われてないわけじゃないですよ。形が少しずつ見やすいようになっていっただけだと思います」
凪の習字のレベルは学生時代のまま成長がない為、秀でているわけでもなければ、見られない程のものでもない、といういわゆる普通の部類だ。
さすがに現役の崩し文字を認識出来る程の能力はない。
彼女の返答を耳にし、何事か思案げな表情を浮かべた光秀を残し、凪は盆を手にしたまま立ち上がって化粧台の前に置かれたままであった座布団へ腰をおろした。
凪が離れると光秀は再び筆を執り、書き物を始める。
もしかしたら先程の八千との会談の内容を報告しているのかもしれない、と思い至った彼女は手に取った湯呑みを両手で包み込んだまま、何気なく手の中のそれを見つめる。
(…会談は無事終わったけど、この後はどうするんだろ。百鬼夜行の正体がわかったのはいいけど、まだ有崎城の亡霊の話が何なのかは掴めてないし…。八千さんは光秀さんを信用したみたいとはいえ、いつバレるかわからないし…またあの人に会ったりするのかな)
一息ついて落ち着いたと同時、様々な疑問が湧き上がって来て凪はあれこれと思考を巡らせる。
どの道光秀に訊いたところで、交換条件かまともに取り合って貰えない事は分かり切っていた為、その疑問は彼女自身の中にくすぶり続けていた。
安土に居る自らの部下達への文をしたためながら、光秀はふと視線を上げて凪の様子を盗み見る。
気丈な様は見せていたが、その顔色には確かな疲労が窺えた。
(…まあ、原因は疲労だけではないだろうが)
戦のない世からやって来たという安穏と暮らして来た彼女が、体験するにはあまりにも詰め込み過ぎのような今回の任ではあるが、会談を終えてみて無駄な事ではなかったと光秀は考え至る。
(戦う術(すべ)よりも、生き逃げ延びる術を覚える事の方があの娘には必要だ)
自分がこうして傍に居てやれる間に、出来るだけ凪の身になる事を、身を持って覚える形で伝えなければならない。
大方書き終えた文を乾かす為、筆を置いた光秀はいまだ湯呑みへ視線を落としていた凪へ静かに声をかけた。
「……どうやら、その小さな頭で色々と考えているようだな」