第5章 摂津 壱
部屋の方へ足を向けると、その襖が片側だけ開いている事に気付く。室内の灯りが薄っすらと廊下を照らしており、足元が見えなくなるような事態と、襖を開ける手間が省かれた凪はそろりと部屋を覗き込んだ。
「小娘、何をしている。早く部屋へ入れ。夜風に当たり過ぎると風邪を引くぞ。俺に懇切丁寧に看病されたいなら、構わないが」
室内には、既に湯浴みを終えていたのだろう光秀の姿があった。
文机の前に座し、手元まで油皿を引き寄せていた彼は、そこに灯る小さな炎を頼りに、何か書き物をしているようである。
視線を上げた先、入り口の影から部屋を覗き込んでいた凪に気付けばゆるりと口元へ笑みを描き、いつもの調子で言葉を発した。
「そこまでヤワな作りはしてないです」
相変わらずの発言に眉根を寄せた凪は、部屋へ足を踏み入れると後ろ手に襖を閉める。
そのまま光秀が居る文机の傍まで歩み寄り、両膝をついて湯呑みを邪魔にならない位置へ置いた。
湯気の立つ湯呑みからは、普段九兵衛が用意してくれている馴染んだ緑茶の香りが漂っている。
「…これは、お前が煎れてくれたのか?」
自分の分の湯呑みが乗った盆をそのまま持ちながら、問われた言葉に目を瞬かせた凪は先程の厨でのやり取りを思い起こして頷いた。
「お湯を用意してくれたのは九兵衛さんですよ。私は本当にただ煎れただけです」
改めて煎れてくれたのか、と問われると途端に気恥ずかしさが湧き上がり、つい素っ気ない態度を取る。そんな凪の様子を一瞥したのち、光秀は吐息を漏らすようにして微かに笑って筆を硯へ置き、湯呑みへ手を伸ばした。
「そうか、では折角お前が煎れてくれた事だ。有り難く飲むとしよう」
長い睫毛を伏せ、穏やかな調子で告げた光秀が湯呑みへ口をつける。
夕方時のように一気飲みではなく、数口飲むに留めた彼はそれを再び文机の上へと戻した。
机の上には長方形の紙が置かれており、筆で書き崩した綴り文字が途中まで記されている。あいにくとまったく読めない凪には何が書かれているのか分からなかったが、彼女の視線の先に気付いた光秀は、特にそれを隠す事なく口を開いた。
「気になるのか?」
「いえ、全然読めないなー…と思って」