第5章 摂津 壱
菜箸を台の上へ一度置いた後、九兵衛は居住まいを正すと凪の前で深々と頭を下げた。
顔を合わせてはいるものの、二人がこうしてしっかりと対面し、言葉を交わすのは実に初めての事である。
そんな九兵衛の挨拶を受け、反射的に背筋を伸ばした凪も彼に倣うようにして頭を下げた。
「こちらこそ初めまして、結城 凪といいます。よろしくお願いします…!」
両手を前で揃える形で丁寧に頭を下げる凪に笑みを浮かべてみせた九兵衛は、ふと先日の山城国での一件を脳裏へ思い起こし、過ぎる罪悪感に内心を曇らせる。
九兵衛が彼女に対し、先日の置き去り事件を詫びる事は容易であるが、おそらく彼の主がそれを望んでいないだろう。
心の中で謝罪を漏らした九兵衛の心情などわかる筈もなく、凪は、あっ、と小さく声を漏らした。
「昨日も今日も、宿に荷物を運んでくれたのが九兵衛さんだって光秀さんから聞きました。ありがとうございました」
「いえ、そのような事。家臣として当然ですよ。お気になさらず」
「九兵衛さんは光秀さんの家臣であって、私の家臣じゃないですから。お礼は当たり前ですよ」
(…変わった御方だ。光秀様が気にかけられる意味がなんとなく分かる)
明朗な様子で告げた凪の言葉を今度は素直に受け取る事とし、男はそっと口元を綻ばせる事で笑みを漏らした。
「…ああ、そういえば凪様はお茶を煎れにいらしたのでしたね。ちょうど湯を沸かしておりましたので、よろしければこちらをお使いください」
「ありがとうございます。…すみません、夕餉の支度途中だったのに」
「いえ、お気になさらず。ちょうど焼き上がりを待っていたところでしたので」
二人分の湯呑みと盆、急須に茶葉などを手早く用意してくれた九兵衛に再度礼を告げ、釜戸の上の茶釜を見やる。
茶葉を急須へ入れ、沸いた湯を茶釜から急須へ注げば、茶の良い香りが辺りへ漂った。
軽く蒸らした後、湯呑みへ緑茶を注げば後片付けは自分がやると申し出てくれた九兵衛に凪は首を振る。
しかし彼の「光秀様がお待ちだと思いますので」の一言に押され、渋々凪は湯呑みの乗った盆を両手に、厨を後にしたのだった。