第5章 摂津 壱
厨内は薄暗いとはいえ、燭台と釜戸には煌々とした火が灯っている。
しかしながら強い光源とは言えないそれでは、満足に一室すべてを照らし出す事が出来なかった。その所為で厨にいた者の正体────光秀の部下と思わしき男、九兵衛の顔を咄嗟に認識出来なかった凪は、つい恐々と問いを投げる。
何やら奥の方で作業をしていたらしい九兵衛は彼女を怖がらせないよう足音を立てて数歩近付き、釜戸の前辺りで足を止めた。
「こんばんは、凪様。先日の山城国以来でございますね」
「え、あ!もしかして九兵衛さん!?」
「はい」
ようやく淡い灯りの中で相手の姿が浮かび上がり、穏やかにかけられた言葉を耳にして、覚えのあるその声と姿に凪が目を瞬かせる。
肯定の意を耳にすると、強張らせていた身体から力を抜き去り、不意に視線を釜戸へ向けた。
厨へ足を踏み入れた瞬間、かすめた香りはそこから来ていたものであったらしい。
「どうなさいましたか?なにかご入用のものでも?」
「いえ!…お茶をせめて用意しておこうかなと…」
「ああ、なるほど。そうでしたか」
柔和な雰囲気で問いかけられ、ここへ至った目的を素直に話した凪へ、納得したらしい九兵衛が頷いてみせた。
「あの、九兵衛さんはここで何を?」
「夕餉の支度でございます。光秀様がお戻りになられましたら、お部屋へお運びしようと思いまして」
よく見れば九兵衛は片手に菜箸を手にしていた。
釜戸の上にかけられていた鍋はおそらく煮物かなにかだろう。醤油の良い香りが昼以降何も口にしていなかった事もあって食欲をくすぐる。
「あ、少し失礼致しますね」
一言断りを入れた九兵衛は身を翻して厨の裏勝手口の近くに置かれていた七輪の傍へ屈み込み、菜箸で焼き網の上に置かれている魚の焼き具合を見ていた。
(……主夫だ)
手慣れたその様子に内心でそんな感想を抱いている凪を他所に、二尾の魚をひっくり返した後で再び彼は凪へ向き直る。
「このような形でご挨拶させていただく形となり、申し訳ありません。私は光秀様へお仕えさせていただいております、九兵衛と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」